てぃーだブログ › ベトナム青葉奨学会沖縄委員会

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Posted by TI-DA at

2014年10月06日

集まりのご案内

長い間やっていませんでしたが、久しぶりに青葉奨学会沖縄委員会の集まりを持つことになりました。
簡単な活動報告や会計報告の他に、今回は沖縄大学人文学部国際コミュニケーション学科の吉井美知子先生がお話を聞かせて下さいます。

吉井先生はかつてホーチミン市でストリートチルドレン支援団体を作って活動されるなど、いろいろな経歴を持った方です。
最近では、日本からベトナムへの原発輸出の問題について、研究・情報発信もされています。

吉井先生は、ベトナムの国民的作曲家チン・コン・ソンさんと親交のあった方でもあります。

1994年、初めて訪ねたベトナムで、私は初めてチン・コン・ソンの歌を耳にしました。
市場の片隅で、手書きのタイトルのついた怪しげなカセットテープをかけてもらうと、街の雑踏の中で悲しげなメロディーが流れてきました。
とても心惹かれて、チン・コン・ソンの歌のテープを何本か買ってきました。

帰国後に「インドシナの風」という本を読むと、その中にチン・コン・ソンに触れた章があり、吉井美知子さんのことも書かれていました。
それ以来、いつか吉井さんのお話を聞いてみたいと思っていました。

その吉井さんが、今年4月から沖縄大学に赴任されていると聞き、私たちの集まりでお話を聞かせてほしい旨、お願いをしました。
そんなわけで、私にとっては20年来の念願ということになります。

集まりは10月11日(土)午後7時より
すぺーす結(久茂地マンション402号室)でやります。
参加費無料、一品持ち寄り歓迎です。

台風19号の動きが気になりますが、どうか来ませんように。

集まりには誰でも参加できますので、もし興味のある方がいらっしゃいましたら、どうぞ。
お問い合わせは、080-2719-4720 村田までお願いします。  


Posted by クアン at 21:21Comments(1)定例会

2014年10月06日

帯状疱疹

長いこと、更新をしていませんでした。
とりあえず、青葉奨学会沖縄委員会の活動は、細々と続いています。

今年は、ベトナムの90名の生徒たちに奨学金を送っています。
ベトナムの事務局からは、これからも支援を続けるように要請を受けていますので、可能な範囲で続けていきたいと思っています。

個人的な話ですが、8月の後半に、少し体調を崩しました。
1週間ほど軽い頭痛が続いて、おかしいなあと思っていたら、そのあと左目の周りが腫れあがって、お岩さんみたいな顔になってしまいました。
ふだんあまり病院に行かないのですが、さすがにびっくりして皮膚科に駆け込むと、「帯状疱疹ですよ」ということでした。

当初は抗ウイルス薬を飲んで在宅で治すつもりだったのですが、その日に無理をして仕事をしたら、夜には発熱や吐き気も出てきました。
もしかしたら薬の副作用かもしれない、と思って翌朝もう一度診察に行くと、「この状態では入院してしっかり治したほうがいいですよ」と言われました。

これまで病気らしい病気をしたことがなかったので、「入院」と言われて驚きましたが、まじめに体調が悪かったので、ある意味ほっとした気持ちにもなりました。じっくり休めるし、一日三回、食事も出てきますからね…。
紹介状を持ってT病院に行くと、やはり「入院して治しましょう」ということでした。

ベッドに横たわって点滴を受けながら「まるで病人みたいですね」と言うと、看護師さんから「立派な病人ですよ」と言われました。
帯状疱疹の場合、8時間おきに抗ウイルス薬の点滴をするのが基本のようです。
帯状疱疹で入院する例は多くないかもしれませんが、顔や頭に出た場合は視力低下などの後遺症が残ることも多く、早い段階でしっかり治療する必要があるそうです。
点滴の効果はてきめんで、熱は1日で下がり、顔面の腫れも3日ほどで大体引きました。

帯状疱疹は、皮膚症状のほかに神経の痛みに苦しめられることが多いようです。
私の場合も、頭からおでこ、首、一時はわきの下まで痛みがあったのですが、幸い激痛にはならず、痛み止めをもらって我慢していました。

1週間ほど点滴治療を続けて、痛みは少し続いていましたが、とりあえず退院することができました。
当たり前のことではありますが、適切な治療を受けられることの有難さを、しみじみと感じました。

退院してから1か月が過ぎ、現在、体調はほとんど戻っていますが(体力はちょっと落ちているみたい)、左目の周りの痛みや痒みが、まだ少し残っています。
ときどき、虫が這っているような違和感もあります。
神経がウイルスに攻撃されるため、皮膚症状がおさまってからも、神経の痛みや違和感が続く場合が多いそうです。

先週も診察を受け、「なかなかすっきり治らないものですね」と言うと、「大抵そういうものですから、気長に見ていきましょう」ということでした。
完治には、もしかしたら年内いっぱいぐらいかかるのかな? ひどい後遺症にならなくてよかった、と考えるべきでしょうね。

当分、無理は避けて、ちゃんと治したいものです。  


Posted by クアン at 19:53Comments(0)

2013年12月11日

琉球新報の記事

先月のアレン・ネルソン奨学金の支給式について、琉球新報が記事にしてくれました。
以下、12月9日付の琉球新報の記事を転載します。


アレン・ネルソン基金
ベトナム児童に奨学金
元米兵の反戦の遺志継ぐ

元米海兵隊員で反戦活動家の故アレン・ネルソンさんの遺志を継ぎ、ベトナムの子どもたちを支援する「アレン・ネルソン基金沖縄」と「ベトナム青葉奨学会沖縄委員会」の関係者ら8人がこのほど、ベトナムへ渡り現地の小学生112人に奨学金を手渡した。基金代表の宜野座映子さん(66)は「アレンは最後まで反戦を訴え続けた。彼の思いを今後も伝えたい」と話した。

ネルソンさんは県北部にある米軍キャンプ・ハンセンで訓練を受け、ベトナム戦争に送られた。退役後は戦場での殺人経験などから心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみながらも、反戦を訴え全国で2000回以上講演した。

奨学金はネルソンさんの死後、闘病支援のため募った寄付の残金を元に2010年に設立された。支給は4度目。

今回は、かつて米軍が進駐したクアンナム省タムキー市とクエソン郡にある2小学校の児童に1人50万ドン(約2500円)を支給した。会によると、この地域の貧困家庭の月収に相当する。アレンさんの活動を伝える冊子も手渡した。

児童からは「頑張りを認めてくれてありがとう」との感謝の言葉と歌のプレゼントがあった。

参加した門口涼子さん(26)は「沖縄から飛んだ戦闘機がベトナムを攻撃した歴史があり、複雑な気持ちだった。先生たちが二度と子どもたちに戦争を経験させたくなという強い思いが伝わった」と話した。森屋菜津美さん(27)は「子どもたちの澄んだ目が印象的だった。今後もできることをしたい」と語った。
  


Posted by クアン at 21:52Comments(0)アレン・ネルソン基金

2013年12月04日

ドンズー日本語学校のホームページより

先日ベトナムのクアンナム省で行ったアレン・ネルソン奨学金の支給式の様子について、ドンズー日本語学校のホームページで紹介して下さいました。
http://www.dongdu.edu.vn/index.php?option=com_content&view=article&id=797%3Ahoc-bong-allen-nelson-2013&catid=36%3Adu-hc-ong-du&Itemid=58
どうもありがとうございます。

ドンズー日本語学校はベトナムで最も規模の大きい日本語学校で、ホーチミン市に本校があります。青葉奨学会の事務所も、ドンズー日本語学校の本校の中にあります。
アレン・ネルソン奨学金については、おもにダナン校の先生方が現地の奨学会との連絡や準備にあたって下さっています。
支給式当日も、もちろん同行して下さいました。

学校の公式ホームページですので、ちょっとかたい文章ですが、多くの写真を載せて下さっていて、様子がよくわかると思います。
以下、日本語に翻訳しました(誤訳の可能性もありますので、ご了承下さい)。




アレン・ネルソン奨学金は、かつてベトナム戦争に従軍したことのある元米兵、アレン・ネルソンの名前を冠して、日本で発足したプログラムである。
この基金は、貧困な境遇の中でも、向学心を持って頑張っているクアンナム省の生徒たちを、いくらかでも支援することを目的としている。

2013年11月24日、高里鈴代代表をはじめ、日本から来た8名のメンバーやドンズー日本語学校ダナン校の職員を含む15名の一行は、クアンナムを訪ねた。
一行は、クアンナム省奨学会を通して、クエソン郡やタムキー市の困難な境遇にある小学生112名と交流し、奨学金を手渡した。

朝6時ちょうどにダナンを出発した。最初の目的地はタムキー市である。
ここで一行は、現在タムキー市内の小学校に通っている、貧困な境遇の中で頑張っている子どもたち62名に、それぞれ50万ドンの奨学金を手渡した。
アレン・ネルソン基金の代表は、文化交流プログラムを行い、贈り物をプレゼントした。その中で、「子どもたちの将来のために、平和を大切にしましょう」と呼びかけた。





タムキー市を離れ、一行は午後1時にクエソン郡の教育訓練局を訪ねた。この地域の14の小学校に通っている、困難な境遇の中で頑張っている50人の生徒たちと交流し、奨学金を手渡した。
これは、子どもたちが困難を乗り越えて勉強に励むように激励する、深い人道的な贈り物である。







この場で、クエソン郡奨学会会長であるチャン・ゴック・ズー氏は、アレン・ネルソン基金とドンズー日本語学校が、クエソン郡の貧困な生徒たちがよく勉強できるようにこれまで支援を続けてきたことに対して、深い感謝の意を表明した。
同時に、子どもたちが両親や学校の先生、支援してくれる人たちの期待を裏切らないように、これからも困難にめげずに頑張って勉強することを望んでいると話した。

最後に、一行は、クエソン郡の地域で特に困難な境遇にある、先ほど奨学金を受け取ったばかりの一人の生徒の家を訪ねた。
母子5人の家族が、支援で建てられた家で暮らしている。父親は亡くなっている。
一行は家族と話をし、困難を乗り越えられるように励ました。同時に、これからも支援を続けられるように希望した。

  


Posted by クアン at 20:06Comments(0)アレン・ネルソン基金

2013年12月04日

秘密保護法を制定しないことを求める国際協力NGOの要請書

国民の多くが反対、または慎重な審議を望んでいる特定秘密保護法が、強行採決されようとしています。
国際協力に関わるNGO団体の間でも、秘密保護法に対する懸念が強まっています。

JANICや名古屋NGOセンターなどが呼びかけている要請書に、賛同団体として加われないか、私たちも沖縄NGOセンターから連絡をいただきました。
会員の皆さんに相談したところ、多くの賛同するご意見をいただき、私たち青葉奨学会沖縄委員会も賛同団体に入りました。

多くの米軍基地に囲まれた沖縄は、法案の成立によって、とくに大きな影響を受けると思われます。
20日ほど前に提出された要請書ですが、改めてご紹介したいと思います。


2013年11月9日    

内閣総理大臣 安倍晋三殿

秘密保護法を制定しないことを求める国際協力NGOの要請書

日本政府は現在「特定秘密の保護に関する法律」を制定すべく関係諸機関で準備を進めています。先般公表され、パブリックコメントが行なわれた「特定秘密の保護に関する法律案の概要」は特定秘密の指定、取扱者の制限、特定秘密の国会審議での扱い方等を規定しています。パブリックコメントには9万件を越える意見が寄せられ、その8割が反対意見であったといいます。当概要で示された秘匿の対象とされる情報は広く日本の市民社会の発展及び国際平和の推進に関わる情報を多く含んでおり、秘密保護に関する法律の安易な制定、運用は民主主義の進展、善隣友好の国際関係の構築の妨げとなる恐れがあります。

私たち国際協力NGOは海外での貧困層を対象とする支援活動や紛争地での人道支援活動の経験から、秘密保護法がもたらす影響について次のように懸念を表明し、政府の適切な対応を要請します。

私たちが危惧する問題点を以下に列挙します。

1.特定秘密の指定に関して

(1)「防衛」分野で示された秘匿対象となる情報の定義は、国際紛争を武力によって解決することの妨げとならない情報を対象としており、前提となる考え方が日本国憲法第9条に反しています。また、議論が進む「集団的自衛権」の行使と合わせて考えた場合、東アジア諸国との良好な国際関係の構築を阻害する恐れがあります。

(2)「外交」分野では「安全保障」に関わる事項を第一段階で篩にかける対象としています。「安全保障」という概念は範囲が広く、例えば外務省の国際協力重点方針では「人間の安全保障」は基本的な柱の一つですし、国際協力NGOが海外の貧困層を対象として行う支援活動も「人間の安全保障」という援助の形態に分類されます。解釈しだいでは「人間の安全保障」に関わる情報が「外交」分野の秘密情報として扱われる可能性があります。

(3)「安全脅威活動」分野においては「外国の利益を図る目的」と大雑把に一括した限定を付した定義が行なわれています。日本政府が行なう政府開発援助、国際協力NGOが行なう海外支援活動等は、見方を変えれば「外国の利益を図る目的」で行なわれる活動と言えます。大雑把な定義が一人歩きし、海外支援や国際協力活動が「安全脅威活動」に属する活動とされ、これらの活動に関する情報が特定秘密として取り締まりの対象となる可能性を否定できません。

(4)「テロ活動」の防止に関しては、「テロ活動」を「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊する行為を行う活動」と定義しています。2001年9月11日の「同時多発テロ事件」以後遂行されたアフガニスタンへの軍事攻撃及びイラク戦争においては「テロ活動」への対処を名目として多くの無辜の市民が犠牲となりました。私たち国際協力NGOは貧困層を対象とする支援活動を行っていますが、経済発展から取り残された国や地域の住民が自衛のためにとる平和的な行動が「テロ活動」とみなされ、政権や強大国の攻撃にさらされる例を多く見ます。「テロ活動」については慎重な対応をとるべきというのが「9.11」の経験から得た教訓です。「テロ活動」の無原則な適用は国際協調、善隣友好を基調とする国際関係の発展を損なう恐れがあります。

2.特定秘密の提供に関して

法案の概要は特定秘密を提供できる場合について詳細な規定を設けています。特に問題なのは国会の審査及び調査における公開の議論を禁じ、情報に接する者(国会議員)の範囲を極端に制限し、特定秘密を知る者(国会議員)に情報保護の義務を課し、漏洩に対して強い罰則規定を設けていることです。

国政に関わる事項については与野党の国会議員が出席する公開の場で議論することが原則です。特定秘密が関係する政策について公開の場での議論を禁じ、秘密情報に接する国会議員を制限し、他に漏らした者は国会議員といえども厳重に処罰する等の規定は、国会議員の活動を制限し、ひいては議会制民主主義の否定につながる重大な問題を孕んでいます。

3.特定秘密の取扱者の制限に関して

法案の概要は特定秘密の取扱者を制限するために「適性評価」を行なうとしています。対象は「行政機関職員等」とされていますが、これに含まれるのは行政機関の職員だけではありません。「契約業者の役職員」という形で一般市民も含まれます。国際協力NGOは外務省、国際協力機構等と委託契約を結んで各種の援助事業を行なっています。国際協力NGOも当然適性評価の対象となります。

問題は適性評価の内容です。対象者の住所、氏名、生年月日にとどまらず、負債の状況、犯罪歴、薬物の使用、精神疾患、飲酒癖を調査し、さらにはテロ活動との関連を調べる目的で本人の思想・信条及び家族・同居人に関わる状況についても調査対象としています。適正評価は市民のプライバシーを大きく侵害する恐れがあります。

私たち国際協力NGOは健全な市民社会の発展と、市民参加による民主主義社会の進展そして公正で平和な国際社会の実現を目指して日々活動しています。民主主義社会は市民の自由な討議と政治への市民参加によって実現されるものです。自由な討議が保証されるには政策に関わる情報が十分に公開されることが必要です。また国民の代表である国会議員が政策上の判断をする上で情報に接することは必要不可欠です。秘密保護法案はこれが施行された場合、国会審議が制限され、市民社会の発展の基礎である基本的人権が侵害され、民主主義に不可欠の市民参加が損なわれる恐れがあります。

秘密保護法案の概要はその趣旨として、特定秘密に関して「その漏えいの防止を図り、もって国及び国民の安全の確保に資する」としています。目的は「国及び国民の安全の確保」にあります。「国及び国民の安全の確保」の目的を達成する手段は多様です。近隣諸国との対立やその解決のための武力行使を前提とせず、平和的な手段で「国及び国民の安全の確保」を図ることは可能です。

以上に指摘した点を踏まえ、私たち国際協力NGOは政府が秘密保護法案の検討に当たって、パブリックコメントに示された国民の意見を尊重し、秘密保護法を制定しないことを強く求めます。

◎ 呼びかけ団体  全8団体 ◎
一般財団法人 北海道国際交流センター(HIF)
特定非営利活動法人横浜NGO連絡会
特定非営利活動法人 国際協力NGOセンター
特定非営利活動法人 名古屋NGOセンター
特定非営利活動法人 関西NGO協議会
特定非営利活動法人 NGO福岡ネットワーク
広島NGOネットワーク
特定非営利活動法人えひめグローバルネットワーク

◎ 賛同団体  全94団体 ◎

<北海道>
エスニコ
特定非営利活動法人さっぽろ自由学校「遊」
北海道開発教育ネットワーク(D-net)
北海道NGOネットワーク協議会
東日本大震災市民支援ネットワーク・札幌 むすびば

<山形>
認定NPO法人 IVY(アイビー)

<福島>
会津放射能情報センター
会津子どもクワイア
会津マスクワイア
放射能から子どものいのちを守る会・会津

<栃木>
学校法人 アジア学院

<千葉>
国際相互理解を考える会
平和・人権・教育と文化を考える会
若葉九条の会世話人会
憲法を読む会

<埼玉>
特定非営利活動法人 アジア・アフリカと共に歩む会
東京電力と共に脱原発をめざす会
特定非営利活動法人 燈台

<東京>
日本ソーラーエネルギー教育協会
国際環境NGO FoE Japan(エフ・オー・イー・ジャパン)
高木学校
原子力教育を考える会
特定非営利活動法人 アジア太平洋資料センター
特定非営利活動法人 ヒューマンライツ・ナウ
公益社団法人 Civic Force
公益社団法人 日本キリスト教海外医療協力会
特定非営利活動法人 ブリッジ エーシア ジャパン
公益社団法人 シャンティ国際ボランティア会
特定非営利活動法人 APLA
特定非営利活動法人 HANDS
特定非営利活動法人 アフリカ日本協議会
特定非営利活動法人 エコ・コミュニケーションセンター
TPPに反対する人びとの運動
特定非営利活動法人 日本国際ボランティアセンター
特定非営利活動法人 シャプラニール=市民による海外協力の会
特定非営利活動法人 日本イラク医療支援ネットワーク
特定非営利活動法人 開発教育協会
特定非営利活動法人 オックスファム・ジャパン
イラク戦争の検証を求めるネットワーク
特定非営利活動法人 日本NPOセンター

<神奈川>
特定非営利活動法人 草の根援助運動
時を見つめる会
大和平和の白いリボンの会
特定非営利活動法人 WE21ジャパン

<富山>
AJA FOUNDATION

<岐阜>
ACF アジアこども基金
さよなら原発の会 中津川
特定非営利活動法人泉京・垂井
特定非営利活動法人ソムニード
放射能のゴミはいらない!市民ネット・岐阜

<愛知>
あるすの会
公益財団法人アジア保健研修所
特定非営利活動法人教育支援NPO EST
GAIAの会
特定非営利活動法人NIED・国際理解教育センター
ココアゴラ
これからの世界をよくする会 KSY
特定非営利活動法人 情報公開市民センター
NGO・世界の子どもたちを貧困から守る会
全国市民オンブズマン連絡会議
そらとも
特定非営利活動法人地域国際活動研究センター
地域みらいの会
特定非営利活動法人チェルノブイリ救援・中部
一般財団法人名古屋YWCA
ニカラグアの会
宗教法人日本聖公会中部教区名古屋学生青年センター
熱帯林行動ネットワーク名古屋
フィリピン情報センター・ナゴヤ
不戦へのネットワーク
ペシャワール会名古屋

<京都>
特定非営利活動法人アクセス‐共生社会をめざす地球市民の会
ODA改革ネットワーク関西
気候ネットワーク
特定非営利活動法人 環境市民

<大阪>
NPO法人AMネット
基地のない平和で豊かな沖縄をめざす会
朝鮮高級学校無償化を求める連絡会・大阪
のせ・かふぇ

<兵庫>
アジアこどもひろば
神戸ネットワーク

<広島>
特定非営利活動法人ANT-Hiroshima
特定非営利活動法人e&g
特定非営利活動法人ひろしまNPOセンター
特定非営利活動法人ひろしまジン大学

<岡山>
とめよう戦争への道!百万人署名運動岡山県連絡会

<福岡>
アジア開発銀行福岡NGOフォーラム
特定非営利活動法人明日のカンボジアを考える会
一般財団法人カンボジア地雷撤去キャンペーン
債務と貧困を考えるジュビリー九州

<沖縄>
特定非営利活動法人沖縄NGOセンター
ベトナム青葉奨学会沖縄委員会
特定非営利活動法人ONE LOVE

<U.S.A>
Seko's Photography
  


Posted by クアン at 00:34Comments(0)

2013年12月01日

飯舘村・浪江町を訪ねて

青葉奨学会沖縄委員会とは関係ないのですが、9月末に、東電原発事故の被災地である福島県飯舘村と浪江町を個人的に訪ねる機会がありました。
昨年亡くなった父のお骨を故郷の三春町のお寺に納めたこともあって、ここ2年ほど福島県に頻繁に行っていますが、避難区域には行ったことがなく、どのような状況なのか気になっていました。
「ふくしま会議」のスタディーツアーで飯舘村と浪江町を訪ねると聞き、思い切って行ってきました。

出発地点の福島駅から南東に進み、川俣町を経て飯舘村に入ります。
川俣町では、山間の田んぼに黄金色の稲穂が実り、稲刈りをしている方々の姿がありました。

そのおだやかな光景は、飯舘村に入ると一変します。
飯舘村は山に囲まれた美しい村なのですが、かつて田んぼだった土地は草むらになるか、除染のため表土をはぎ取られて、見る影もなくなっていました。





除染ではぎ取られた土は、フレコンバッグに詰められ、村のあちこちに積み上げられていました。この日は日曜日なのであまり見かけませんでしたが、平日には多くの除染業者の方々が作業をしているそうです。



一度除染した場所も、時間が経つと再び線量が上がってしまうこともあるそうです。
私は除染は必要だと思っているのですが、飯舘村の除染は、気の遠くなるような困難や矛盾を抱えているのも事実だと思います。

飯舘村については、村出身の佐藤健太さんが案内をしてくれました。
佐藤さんは、震災直後から積極的に発信を続けてきた青年です。



佐藤健太さんの実家は、テトラポットの型枠をつくる仕事。震災から数日後、注文に間に合わせるためにお父さんは営業を再開、高線量を心配した健太さんは、お父さんと何度も言い争ったそうです。一方、風評被害は金属製品にも及び、謂れのない中傷を受けることも少なくなかったとのこと。

「かつての飯舘村に戻れるなら、何の迷いもなく帰りたい。でも現状の村に戻りたいかというと…。『村に戻る・戻らない』の間で揺れ続けて、心が疲弊していく…」。
村の若者としての悩ましい思いを、佐藤さんは率直に語ってくれました。

飯舘村の秋はキノコ採りの季節。腰の曲がったじいちゃん・ばあちゃんたちも張り切って山に入り、沢山のキノコを採ってきて味わう、何よりも楽しい季節だったそうです。
飯舘村でも、北部の一部は「避難指示解除準備区域」になっています。でも、村に戻れたとしても、山の幸を楽しむ暮らしは、当面取り戻せないかもしれません。
山村の豊かな暮らしや文化が、原発事故によって、根こそぎ奪われてしまったのです。

飯舘村を抜けて、南相馬市に入りました。
原町区は一見普通の街並みなのですが、20キロ圏内(旧警戒区域)の小高区、そして浪江町に入ると、沿道の様子ががらりと変わりました。
ところどころ自動車がひっくり返っていたり、がれきが積み上げられていたり、津波で打ち上げられた漁船が転がっていたり…。これは震災直後ではなく、今年9月末の様子です。



津波のため、南相馬市では630名以上、浪江町では180名以上の人の命が失われました。浪江町の海岸近くには慰霊碑が立っていました。



請戸港の近くの海岸に出ました。約3キロ南にある東電福島第一原発の排気筒が見えました。
現場では、命がけの厳しい収束作業がいまも続けられており、地元の被災者も多く携わっています。



電柱には「東北電力」の表示がありました。歩いて行けるほど近い場所に巨大な発電所があるのに、そこでつくられた電力はすべて東京など首都圏に送られていたのです。
私も東電の電気の恩恵を受けてきた人間であり、飯舘や浪江の現状は決して他人事ではないと思います。

浪江駅近くの通りを歩きました。崩れたままの建物。ガラスが散乱した歩道…。(最近になって、ようやく倒壊した建物の片づけが始まったそうです)







人影のない街にアナウンスが響きました。「浪江町への立ち入りは午後4時までです。4時までに町を出られるように準備を始めて下さい。スクリーニング場は5時までです」。

この付近の放射線量は低く、毎時0.1~0.2μSV/h程度だそうです。
内陸部に入ると線量は上がり、今でも10μSV/hを超える場所もあります。同じ浪江町でも、100倍以上の差があるようです。線量の高い地域は「帰還困難区域」となり、帰れるメドはまったく立っていません。

福島民報の販売店の中を覗いてみると、「東北地方に大地震」を告げる新聞が、そのまま積まれていました。1号機が爆発した3月12日の朝、新聞を配る余裕もなく、避難を迫られたのでしょう。



常磐線・浪江駅の中を見ると、「大地震のため終日運行を見合わせます」との掲示がありました。
この町の時間は、2年半前から完全に止まってしまったかのようです。



浪江町を流れる請戸川。秋にはサケが遡上する美しい川です。
上流の山々は線量が高いため、川底にはセシウムが貯まってしまっているとのこと。



バスの中で、たまたま隣になった牛来(ごらい)美佳さんに、いろいろお話しを聞かせてもらいました。浪江町の出身で、小学生の娘さんと一緒に群馬県に避難しているそうです。東電の下請け会社の職員で、震災の日も福島第一原発の事務所で働いていたとのこと。シンガーソングライターでもあります。

震災の翌日、牛来さんは原発の事故を知らずに「次の津波を避けるため?」と思い、指示に従って内陸部の津島地区に避難したそうです。全国の多くの人たちが息をのんで福島第一原発を見つめていたあの時、昨日までまさにそこで働いていた女性が、何の情報もなく幼い子どもを抱えてさまよっていたとは…。

牛来さんの家は、私たちが歩いた浪江駅のすぐ近くにあるそうです。「どうして自分や家族や友人たちがここに存在していないのか?これが夢であってくれたら、とずっと思い続けている。最近も、希望を失って自ら命を絶ってしまった知人がいる。これからが本当のたたかいだと思う」。

牛来さんの歌『浪江町で生まれ育った』。
「ぼくらの町は 海も山もある 素晴らしい自慢の町さ」
「どうかいつか帰る 道をいまここで信じて」



震災から2年半以上が過ぎ、私の知る限り、福島県の人たちの暮らしはずいぶん落ち着きを取り戻してきているように思います。
多くの人たちの努力によって、農産物などの汚染は、(一部の品目を除くと)とても低いレベルに抑えられています。
福島県産の米は、全量全袋検査が行われています。私は、毎日福島産の米を美味しく食べています。

福島県には本当に多様な現実があって、一言で言い表せるようなものではありません。
でも、原発事故のために凄まじい被害をこうむっていることは否定しようがありません。
私はほんの一端を見てきただけですが、避難区域となった地域の困難さは、想像を絶するものでした。

数万人もの人たちが、いまも理不尽に故郷を奪われ続け、避難生活の中で命を落とした方々も少なくないこと、決して忘れてはいけないと思います。
いまも故郷に帰ることのできない飯舘村や浪江町の人たちのこと、心のどこかに刻んでおきたいのです。  


Posted by クアン at 19:42Comments(0)

2013年11月29日

タムキー市ラジオ・テレビ局

先日タムキー市で行ったアレン・ネルソン奨学金の支給式について、タムキー市ラジオ・テレビ局のホームページに簡潔な記事が載っていました。
http://tamkyrt.vn/vi/news/KINH-TE-XA-HOI/Hoi-khuyen-hoc-Tam-Ky-trao-62-suat-hoc-bong-Allen-Nelson-2625/

おそらく、クアンナム省かタムキー市で放送して下さったのだと思います。
内容は、だいたい次の通りです。

11月24日朝、タムキー市奨学会は、現在市内の小学校に通っている生徒のうち、困難な境遇にめげずよく勉強している62名の生徒たちへの奨学金授与式を行った。
それぞれ50万ドンの資金は、アレン・ネルソン基金が支援した。これは、かつて南ベトナムでの戦争に従軍した元兵士・アレン・ネルソンの名前をとって、日本で結成されたグループである。
2009年から現在まで、アレン・ネルソン基金は、250名近いタムキー市の生徒に対して、総額約1億2500万ドンを支給している。
アレン・ネルソン基金の代表はまた、文化交流のプログラムや贈り物の授与も行い、子どもたちの将来のために平和を大切にしましょうと呼びかけた。  


Posted by クアン at 22:52Comments(0)アレン・ネルソン基金

2013年11月28日

2014年アレン・ネルソン奨学金

長い間、ブログの更新をさぼってしまいました。
久しぶりにログインしようとしたら、パスワードを忘れていました。
10分ほど考えた末、なんとか思い出してログインできました。

青葉奨学会沖縄委員会の活動は、細々とですが続いています。

3年ぶりにベトナムに行ってきました。
今回は、アレン・ネルソンさんと親交のあった方々と一緒に、アレンさんが駐留したクアンナムをはじめ、ダナンやホーチミン市を訪ねました。
クアンナム省のタムキー市とクエソン郡では、2014年のアレン・ネルソン奨学金支給式に参加しました。

2010年1月に、アレン・ネルソン奨学金が発足して初めての支給式に参加したあと、いろいろと個人的な事情が重なり、ベトナムに行くことができませんでした。
ドンズー日本語学校ダナン校の皆さんやクアンナム奨学会の方々のご尽力で、2011年、2012年、2013年も、クアンナムの小学生たちに奨学金が渡されました。
ベトナムの皆さんに丸投げした形になってしまい、ずっと申し訳ない気持ちを感じていました。

また、これまで現地を訪ねたのが私一人だけで、実際にアレンさんと親交のあった方々は、まだクアンナムに行っていません。
アレン・ネルソン基金沖縄代表の宜野座映子さんからは、ぜひクアンナムとダナンに行きたいという相談を受けていました。
いろいろな事情でこれまで実現しませんでしたが、今回、思い切って行ってきました。

アレン・ネルソン基金沖縄の事務局からは、宜野座映子さんをはじめ、新垣誠さん(キリ学大)ともう一人が参加、青葉奨学会沖縄委員会代表の高里鈴代さん、源啓美さん、若い世代の二人も加わって、20代から70代までの多彩なメンバーになりました。

事前の連絡が不十分で、いろいろと不安もありましたが、現地ではベトナムの皆さんの大きな力添えをいただき、全員無事に帰ってきました。
11月24日には、タムキー市で62名、クエソン郡で50名の小学生に、2014年のアレン・ネルソン奨学金(それぞれ50万ドン)を手渡すことができました。
タムキー市奨学会のスアン会長やトゥン副会長からは、アレンさんに対する思いを聞かせていただきました。

まだまだ不十分なところはたくさんあるのですが、アレン・ネルソン基金の残金を、アレンさんがかつて駐留したクアンナム省の子どもたちへの奨学金として活用しようという考えは、間違いではなかったように思います。

時間はかかりますが、具体的な報告を、これから少しずつ書いていきたいと思います。
なお、これまでのアレン・ネルソン奨学金のいきさつは、http://aobaokinawa.ti-da.net/c136490.html をご覧いただけると幸いです。  


Posted by クアン at 19:50Comments(1)アレン・ネルソン基金

2012年11月22日

勉強会でお話ししたこと

1か月ほど前、「琉球自治州の会」と「沖縄うまんちゅの会」の勉強会で、青葉奨学会沖縄委員会のことをお話しする機会がありました。
10名ぐらいの方が来て下さっていたのですが、ベトナム戦争の頃に基地で働き、全軍労の闘争に参加された方もいて、ベトナムの話に強い関心を持ち、熱心に耳を傾けて下さいました。
その時に「話の内容をまとめて原稿を書くように」と頼まれていたのですが、すっかり忘れていて、先日電話で催促を受けて慌てて書きました。
せっかく書いたので、このブログにも掲載します。


9月のある日、世話人の大村さんたちと、たまたま一緒に飲む機会がありました。
あれやこれや楽しく話しながら飲んでいたら、気がついてみると「来月の勉強会は、あなたが話をするように」ということになっていました。

私に与えられたテーマは、「沖縄とベトナム~国際交流の現場から」。
私は仕事の合間に事務局の作業を細々と続けているだけなので、「国際交流の現場から」というのは大変おこがましいのですが、私が関わっている「ベトナム青葉奨学会沖縄委員会」ができるまでのいきさつや、支援先を訪ねて思ったことなど、ざっくばらんにお話しさせていただきました。
拙い話に熱心に耳を傾けて下さった先輩方に、感謝いたします。

「ベトナム青葉奨学会沖縄委員会」は、グエン・ドゥック・ホーエさんというベトナム人の呼びかけに、高里勝介さん(故人)・鈴代さん夫妻が応じて始まったものです。
ホーエさんは、1959年に南ベトナムから来日、60年代に東大や京大で学びました。
故国ベトナムで戦火が広がっていく中、ホーエさんは留学生のリーダー的存在として、東京で「東遊学舎」という寮を作り、困難な境遇にある仲間たちを支え励まし続けました。
1965年に米軍が北爆を開始したとき、真っ先に霞が関で反戦デモを行ったのも、ホーエさんたちベトナム人留学生だったそうです。
また、1970年代初めには、戦時下の故国の子どもたちを少しでも励まそうと、日本人にも呼びかけて「兄弟奨学会」という団体を作り、奨学金を送る活動を始めました。
その会の事務局は、当時東京の早稲田奉仕園で仕事をしていた高里さん夫妻の自宅に置かれていたということです。

ホーエさんは、1974年にサイゴンに帰っていきました。
その頃には北ベトナム側の優勢は明らかで、共産主義に批判的なホーエさんが帰国することには、周囲から強い反対の声もあったそうです。
しかし、ホーエさんにすれば、故国がいちばん厳しい時期に同胞と離れていることは、耐え難かったのでしょう。
翌年にはベトナム戦争が終結、革命の混乱の中でホーエさんの消息は途絶え、「兄弟奨学会」の活動も中止せざるを得ませんでした。

それから20年近くが過ぎた1993年、ある日のNHKニュースにホーエさんが登場しました。
ドイモイ政策で変化の兆しを見せるベトナム・ホーチミン市で、「新しい国づくりは人づくりから始まる」と教育に情熱を燃やしている姿が紹介されたのです。
それを偶然見ていた高里夫妻はさっそくホーエさんに連絡を取り、ベトナムを訪ねました。
ホーエさんはドンズー日本語学校を設立し、また貧困家庭の子どもたちが安心して学校に通えるように、新たに奨学金支援の活動を始めていました。
ホーエさんの要望を受けて、高里夫妻が友人たちに呼びかけて1994年に始めたのが「ベトナム青葉奨学会沖縄委員会」です。

物価の安いベトナムでは、年間数千円から1万円ほどあれば、学費や教材費などを賄うことができます。
私たちはホーチミン市にある事務局を通して、ベトナム各地の小・中・高校生にささやかな支援を続けてきました。
私は15年ほど事務局を担当しています。主な仕事は、手紙や書類の翻訳です。
地味な作業ですが、毎年手紙を読んでいると、生徒一人一人の個性が見えてきたり、成長ぶりを実感させられたりすることもあり、楽しい仕事です。
また、何度かベトナムツアーを企画し、生徒たちを訪ねて交流の機会を持ちました。

私たちが支援する生徒たちのうち約半数は、ホーチミン市の南東に位置するカンザーという地域に住んでいます。
初めてカンザーを訪ねたのは1998年。樹高10メートル以上ある広大なマングローブの森に感嘆していると、「ここの森は天然の森ではなく、すべて住民が植林したものです」と聞かされ、さらに驚きました。
ベトナム戦争時、この地域はゲリラの拠点となり、米軍が繰り返し枯れ葉剤を散布、大半の森が枯れてしまったのだそうです。
戦後、行政や住民が地道に植林を続け、元の森の約3分の2を蘇らせたということです。
昨年あたりから、ベトナム戦争期に沖縄の米軍基地に枯れ葉剤が貯蔵され、運び出されていたという証言が数多く出てきています。
カンザーの森を破壊した枯れ葉剤も、もしかすると沖縄から運ばれていたのでしょうか。とても複雑な思いに駆られます。

会の設立から20年近く経ち、多くの元奨学生が、さまざまな分野で活躍を始めています。
長年のホーエさんの苦労や想いが実を結びつつあること、私たちもほんの少しですがそれに加われたことを、嬉しく思っています。

勉強会の話の最後に、フィン・タオ・チャンさんという元奨学生が書いたブログを紹介しました。
行商(露天商)の仕事をして自分たちを育ててくれたお母さんへの思いを書いた素晴らしい文章です。
話しているうちに、私もいろんな思いがこみあげてきました。
下手な翻訳ですが、チャンさんの文章を日本語でインターネットにアップしていますので、可能な方は読んでいただけると幸いです(「母さんの仕事」で検索できます)。http://aobaokinawa.ti-da.net/e3529520.html  


Posted by クアン at 22:14Comments(0)

2012年09月29日

基地で作られた謀略ビラ



http://www.okinawatimes.co.jp/article_photo/62465/より

↑これ、何だと思いますか。ホーチミンさんの写真があるので、どうもベトナムの紙幣みたいですが、左側に何やら変な文字が刷られています。
よく見ると、こんな文章が書かれています。

Hãy coi chừng một cuộc cải cách tiền tệ nữa.
Các bạn có thể mất tất cả tài sản, công lao mồ hôi nước mắt của bạn.
 
日本語にすると、大体次のような意味になると思います。「通貨の改革に気をつけましょう。あなたの働き、汗、涙の賜物である財産のすべてを、皆さんは失うかもしれません」。

「あなた方は財産を失くすかもしれない」と書かれた紙幣(らしきもの)。
なんとも不思議な代物ですが、実は1970年前後に沖縄で作られたものです。

9月23日の沖縄タイムスに、こんな見出しが出ていました。
「謀略ビラ 私たちが作った ベトナム戦争時 元従業員3人証言」。

「ベトナム戦争時、沖縄に常駐していた米陸軍第7心理作戦部隊の工場で働いていた元基地従業員3人が22日までに、北ベトナム社会を混乱させる目的で散布していた謀略ビラを『私たちが作っていた』と沖縄タイムス社に証言した」というのです。
その謀略ビラの中に、紙幣に似せて作られた偽札仕様のものもありました。上の写真は、そのうちの一つです。

10年くらい前に、沖縄平和ネットワークの学習会で、長年基地問題を追い続けてきた新聞記者の方から「牧港補給基地では、北ベトナムの偽札も作られていたようです」という話を聞いたことがあります。
私は印刷屋で仕事をしていることもあって、偽札作りに携わった工員のことが気になりました。
そのような汚い仕事は米兵が中心なのだろうけど、ひょっとしたらウチナーンチュの基地労働者も偽札作りの一端に関わったかもしれない。いつか、どなたかそのことを証言して下さるのではないか。
牧港補給基地での偽札作りの件は、ずっと心の中に引っかかっていました。

それで、このタイムスの記事を見たときには、手が震えました。
3名の証言によると、偽札仕様のビラは北ベトナムの経済を混乱させるのが目的ではなく、住民に拾わせて心理的に動揺させるのが目的だったようです。
写真のビラは、「みなさんは北ベトナム政府を信じて命がけで戦っているかもしれないが、政府の気まぐれな政策一つで、みなさんの財産など紙切れになってしまうかもしれないよ」という、政府への不信感を与えることを狙ったものだと思います。

大城良信さんは、次のような証言をされています。
「牧港補給地区の米陸軍第7心理作戦部隊に入ったのは1968年。謀略ビラを作る205号ビルの製本部で働いた。印刷部で刷り上がった大ゲラを裁断し、1枚ずつビラを段ボールに詰めるのが仕事だった。その箱がそのまま米軍機にセットされ、戦場で空中散布されるんだ」
「当初、謀略ビラは文字だけのものが多かった。ベトナム語で何か書かれていたが、純粋に『戦争終結のためになる』と思っていた」
「しかし、途中から偽札仕様のビラが増えてくる。米軍が、戦場で何をしているのかが見えてくるんだ。さらに、全軍労に入って学ぶうちに『戦争の片棒を、僕らは完全に担いでいるじゃないか』と、痛感するようになった」
「73年、作業中に偽札仕様のビラをポケットに入れて持ち出し、匿名で全軍労に告発した」
「今も、僕はベトナムのニュースが気になる。政治、経済、社会、どんな報道であっても。これはあの時代、基地で働いたウチナーンチュに共通する思いではないだろうか」
「ベトナム人から見れば、米国も沖縄も同じ加害者。申し訳ない、という気持ちが消えることはない」

沖縄がベトナム戦争の出撃・兵站基地として使われたことはよく知られていますが、基地の中で何が行われたのか、まだよくわかっていないこともいろいろあるのでしょう。
最近いろいろな証言が出てきている沖縄の枯れ葉剤もその一つです。
枯れ葉剤問題については、ジョン・ミッチェルさんやQABの方たちなどが、実態を明らかにするべく地道な取材を続けています。
沖縄でベトナムと関わってきた者として、私たちも関心を持っていきたいと思います。
  


Posted by クアン at 22:02Comments(0)沖縄基地とベトナム

2012年09月18日

青葉卒業生の夢

9月15日、東京のベトナム子ども基金の集まりで、元青葉奨学生Hさんのお話を聞いてきました。
ベトナム北部ハナム省出身のHさんは、中学2年生のときから6年間、青葉奨学金を受けて勉強し、その後日本に留学。新聞配達をしながら日本語を学び、現在は東京学芸大学教育学部の1年生です。
Hさんは、将来の夢について語ってくれました。障がいを持った子どものための学校をつくるという、とても困難でハードルの高い夢なのですが、青葉の卒業生がこのような目標を持って勉強に励んでいることを、本当に嬉しく思います。
今年は、私的な事情のため、青葉奨学会沖縄委員会の事務作業がかなり遅れてしまっているのですが、しっかりやらなきゃ、という気持ちにさせてくれました。
以下、Hさんのお話の内容をご紹介します。


私の夢は、障がいを持つ子どもたちの先生になることです。将来、私はベトナムに障がい児向けの小学校をつくりたいです。

中学生時代に先生の家を訪ねたとき、聴覚障がいのある息子さんと出会いました。彼と会話をしたとき、彼の優しい表情や手話の動作がとても印象的でした。
その時から、私は障がいのある人に関心を持つようになり、新聞やニュースで彼らの姿を見ると涙がこみ上げることもありました。私の心に何かが響きました。

2008年9月に、憧れていた日本へ留学に来ることができました。
留学生活を通して、私は日本の障がい者を取り巻く環境の進歩にとても驚きました。
目の見えない人が、横断歩道を一人で渡っているのを見たとき、私は目を丸くしました。なぜなら、道路事情の良くないベトナムではあり得ないことだからです!
また、街中の様々なバリアフリー技術にも圧倒されました。ベトナムも日本のように障がいを持つ人たちに優しい環境を作っていくべきだと強く感じました。

私は、ベトナム北部の小さな村で生まれました。母は、野菜の行商や米の収穫をしながら、一人で私を育ててくれました。
そんな母の苦労を幼い頃から見てきたので、障がいのある子どもを持つ家庭は、もっと大変だろうと考えるようになりました。
私は彼らを助けたいと思い、障がい児の先生の道を選びました。

現在、ベトナムでは、障がいを持つ子どものほとんどが学校に通うことができていません。
障がい児教育の質やインフラ、人材育成もまだまだ十分ではありません。
また、戦争中に使われた枯れ葉剤の後遺症によって、子どもや孫の世代にも障がいが出ています。その被害が最も多いのはベトナム中部です。
そこで、私はベトナム中部にあるクアンナム省に、障がいのある子どものための小学校を開きたいと思っています。

この学校のいちばんの目標は、学生たちが自信を持って社会に出て行けることです。
将来、健常者の子どもたちと一緒に暮らすことができるよう、心も身体も元気でいられる学校にしたいです。
また、家庭の負担を減らすため、学費は無料にします。
クラスは、子どもたちの能力に合わせて色々なクラスをつくり、特別な教科書を使います。
進学や就職の不利にならないよう、基礎学力もしっかり身につけて、社会で必要な知識や道徳にも触れていきます。
お昼には、栄養のある給食を食べて、運動や課外活動も充実させます。

これから、私は日本の大学で、学校づくりに必要な力を身につけていきたいです。
そこで学んだノウハウをベトナムに持ち帰り、ベトナムの障がい児教育の向上にも貢献したいです。
また、障がい児教育をテーマにしたベトナムと日本の交流の場をたくさんつくりたいです。そこで、障がいを持つ子ども同士が交流し、気持ちを共感したり、励まし合うことで勇気をもらえる、と思います。

私にとって、夢の実現までは、まだまだ遠いです。意志が揺れてしまうこともあります。
先輩や友達からは、留学生にとっては教育学科は難しいから、やめた方がいいというアドバイスをもらったこともあります。

でも、障がいをもった人でも、ベトナムの中で活躍し、社会に貢献している人がたくさんいます。
たとえば、グエン・ゴック・キー先生は、両手を動かすことができませんが、足で字や絵を書いています。
タイン・トゥンさんは、枯葉剤の後遺症で目が見えませんが、耳で音楽を感じ、自ら楽器を練習し、世界の多くの国で演奏しています。
チャン・ティ・ホアンさんは、両足も左手もありません。それでも、彼女は外国語の英語を上手に話し、IT企業で働いています。
彼らの強い意志を知ると、私も夢をあきらめないという強い気持ちになります。

ベトナムでは、障がいを他人に知られたくないという理由で、子どもを学校に通わせない家族もいます。
障がいを持つ子どもが生まれるのは、先祖が悪いことをした報いだというような、古い考え方も残っています。

でも、皆と同じように教育を受けて、才能を伸ばし、社会で役割を果たすことができれば、自信を持つことができます。
それを可能にする学校が増えれば、家族も安心して、障がいを持つ子どもを学校へ送ることができます。
彼らが学校や会社で活躍することで、周りのベトナム人も、障がいを持つ人たちを認めるようになります。
私は、このようにベトナムの社会が変わっていくことを信じています。

皆さんは、枯れ葉剤が原因で身体を一つにして生まれたベトさんとドクさんをご存じだと思います。
日本人医師の協力による手術のおかげで、ドクさんは今も元気に生きています。奥さんと子どももできて、幸せな家庭を持つことができました。
このように、多くの日本人がベトナムの障がい者を支援して下さいました。そのことを、何よりも心から感謝いたします。

今日は、初めて会う私の夢について聞いていただき、ありがとうございました。
どうか、私の夢を実現するための力になっていただきたいです。
そして、ベトナムの子どもに関心がある方ときっかけが生まれるよう、願っています。



  


Posted by クアン at 20:44Comments(0)奨学生

2012年09月15日

「福島第一サティアン」

ツイッターhttps://twitter.com/murataquangにも書いたのですが、自民党の有力な総裁候補・石原伸晃氏が、福島第一原発を勘違いして「サティアン」と言ったことが話題になっています。
語感が似ているわけでもないし、意味も全く違うし、どうしたら勘違いするのでしょうか。おそらく、ふだんから仲間内での隠語として「サティアン」と呼んでいるのでしょう。

いま、福島第一原発の現場では、依然として危険な環境の中で、なんとか事態を収束させるために多くの作業員の方々が命がけで格闘を続けています。
ある意味では、私たちがとりあえず安心して暮らせているのは、第一原発の作業員の方々のおかげ、というところもあるだろうと思います。

私はできるだけ早い時期に原発を廃止すべきと思いますが、そうしたこととは別に、作業員の方々への敬意、感謝、いたわりの気持ちは持ち続けたいと願っています。
福島第一原発と、オウムがサリンを製造したサティアンを混同するような人は、おそらく現場で働く人たちへの敬意など、微塵も持っていないのでしょう。

それ以上に引っかかるのは、伸晃氏はこれまでどこで作られた電気を使ってきたのだろう、という疑問です。
まさか、「サティアン」で作られた電気を使ってきたわけではないですよね。

私も東京で生まれ育ち、東京電力の電気を使って暮らしてきました。生まれたときは仮死状態だったそうなので、電気がなければ、生きながらえられなかったかもしれません。

震災のあと、東京や首都圏の多くの人たちが、これまで福島など地方にリスクを押し付けて、恩恵を受けてきたということに気づき、程度の差はあれ自分たちの暮らしを見つめ直したと思います。

冗談のつもりかもしれませんが、第一原発を平気で「サティアン」にたとえられる人には、自分たちが福島の電気を使って暮らしてきたことなど、想像もしたことがないのでしょう。
そんなことは東京で暮らす人たちの当然の特権と思っているかもしれません。

このような人たちが、権力の中枢にあと一歩のところにいる。普天間のことなど、解決を望むべくもないのでしょうか。  


Posted by クアン at 00:26Comments(0)

2012年08月26日

ベトナム現地のサイト

ベトナム語講座で一緒に勉強しているMさんが、「ベトナム現地の新聞などのサイトを見てみたい」ということなので、私の知っている代表的なものをいくつかご紹介します。

今では、ベトナムの代表的な全国紙はもちろん、地方紙(ビンディン新聞とか、クアンナム新聞など)にもウェブ版があるので、自宅で手軽に見ることができます。
卒業生のブログなんかも読めるし、私はフェイスブックをやってないのでよくわからないのですが、おそらくフェイスブックを通しても卒業生や一部の奨学生ともつながれるかと思います。

青葉奨学会の活動が始まった1994年当時、こんな時代が遠からず来るなんて、想像もしませんでしたが…。

今日は、現地の新聞のサイトをいくつか…。

Tuoi Tre(トゥオイチェ)http://tuoitre.vn/
私の感じでは、サイゴンでは最も広く読まれ、支持されている新聞のような気がします。「ホーチミン市共産青年団機関紙」ということなのですが、公害や汚職の問題などでは不正を強く追及するなど、言論の制限がある中で奮闘しているという印象です(最近の事情はよくわからないのですが…)。

Nhan Dan(ニャンザン・人民)http://www.nhandan.com.vn/
ベトナム共産党機関紙で、やはりベトナムを代表する新聞だと思うのですが、私の乏しいベトナム滞在歴に限って言うと、街では一度も目にしたことがありません(ベトナム航空の機内で一度だけ見かけた)。あまり人気はない? まあベトナムの重要な新聞であることは間違いないと思います。

Cong An(コンアン・公安)http://www.congan.com.vn/?mod=trangchu
公安(警察)が出している新聞だそうです。犯罪に関することなど、三面記事の内容が多く、結構人気があると聞きました。ところで、cong an(公安)とcanh sat(警察)って、具体的にはどう違うんだろう?

VnExpress(ベトナム・エクスプレス)http://vnexpress.net/
これは紙媒体はなくて、ウェブ版だけの新聞だそうですが、とても広く読まれているみたいです。

とりあえず、これぐらいにしておきますね。まずサイトを見てみて下さい。読むのは少し難しいかもしれませんが、写真もたくさんあるし、Tuoi TreのMedia Onlineを開くと、かなり多くのCDを聴くこともできます。
私の知識も大変限られているのですが、とりあえず参考にして下さい。  


Posted by クアン at 00:42Comments(0)ベトナム語講座

2012年08月05日

ツイッター始めました

ふと思い立って、ツイッターを始めてみることにしました。
これは、青葉奨学会沖縄委員会としてのものではなく、事務局をやっている村田の個人的なツイートです。
とはいえ、青葉奨学会沖縄委員会に関係する内容も、つぶやくことがあると思います。

今日は、ツイートをしながら手紙の翻訳をやったらどうなるのか、試してみました。
手紙の内容などを簡単に紹介しながら、「○通目終わりました」などつぶやいてみると、なかなかいい気分転換になると思いました。
始めたばかりで、フォローして下さる方がまだゼロなので、たぶん誰も読んでいないと思うのですが、まあぶつぶつ独り言を言いながらやってるようなものですね。

そんなわけで、昨日、今日とだいぶツイートをしたので、手紙の翻訳や青葉奨学会に関係するツイートを、転載してみます。


偶数月の第一土曜日は、青葉奨学会沖縄委員会の定例会の日。会員の方から、「今月は例会ありますか」と連絡をいただきました。ごめんなさい。このところ、ほぼ毎週末、用事で東京に行っていたりして、定例会のことを忘れていました。今日はお休みにして、年内にあと一回はやりたいと思います。

子どもたちの手紙の翻訳など、事務作業も大幅に遅れてしまっています。明日は県民大会も延期になったし、台風で天気も悪そうなので、翻訳を頑張ろうと思います。そうだ、明日までに、最低でも10通終わらせよう! ツイートしたからには、やらないと。

3月から5月にかけて翻訳した、100通以上の手紙のwordデータを、この前うっかり消去してしまいました。プリントアウトしたものを会員の方々に送ったあとなので、まだよかったのですが、興味深い内容の手紙が多かったので、とても残念です。気持ちを持ち直して、新しい手紙に取りかかろう。

翻訳2通目。「旧暦の大晦日の夜、わたしは家族と一緒に、正月のちまきの用意をします。薪をくべる人、ちまきを包む人。わたしは母と一緒に、ちまきが蒸しあがるのを待って、それから祖先にお供えします。かまどのそばで夢中になっているので、年が明けたのに気がつきません」。なんか素敵だなあ…。

4通目。サイゴン川河口近くの、マングローブの森に囲まれた、小さな村に住む女子中学生の手紙。ご両親は塩田での雇われ仕事をしている。「塩作りの仕事は長く休めないので、正月の2日目には家族みんな塩田に出て仕事をします。わたしは、ご飯作りなどのお手伝いをします」テトは乾季だからなあ…。

翻訳、とりあえず今日は順調に進んでいるけど、難しくてわからない部分がいくつかある。辞書を引いてもわからない。今度、ベトナム人の青年に教えてもらうことにしよう。まだまだ勉強が足りないですだよ。

5通め。「お正月には、祖父母の家に行って、ご先祖の方々にお線香をあげます。それから、戦争で亡くなった村の人たちのお墓で、お線香をあげます」。この子が住むティンケ村は、かつて「ソンミ村」という名前だった。米陸軍による住民虐殺があったところ。翻訳しながら、涙が出てくる。

そもそもテトのあとに子どもたちが書いてくれた手紙を、いまごろ翻訳してるのは困った話なのだ…。でも今年はいろいろあったんで、大目に見て下さい。なんとか頑張って、今月中には終わらせて会員の皆さんのもとに送るようにしたい。

6通めが終わりました。短い手紙は5分程度で訳し終わることもあります。一方、長くて難しいものは、まる一日かかっても終わらないこともあります(私の力不足のためですが)。今日の目標まで、あと4通です。ときどきツイッターに書き込みながら進めると、なんだか仕事がはかどるような気もします。

さきほど、気分転換に買い物に行ったところ、急に風雨が強まってきました。これでは県民大会どころではない。台風は与論島と沖永良部島の間を通って東シナ海に抜けた模様。風向きもだいぶ変わりました。あと1通訳したら、夕食にしようかな。

風雨がさらに強くなってきました。台風は今が最接近と思われますが、ここにきて速度がかなり落ちて、ノロノロ台風になる様子。影響は明日いっぱい、ひょっとして明後日まで続くかもしれません。手紙の翻訳は、いよいよ10通めです。あと一息、がんばろう。

なんとか、目標の10通の翻訳を終えました(わからなかった部分があるので、「終えた」と言えるか微妙ですが…)。ほとんど一日パソコンに向かっていたので、気分的にぐったり。シャワーを浴びて、島酒をいただいて寝ることにしましょう。ときどきツイートするのは、いい気分転換になったようです。


まあこんな感じでした。
手紙の翻訳が遅れてしまっていること、本当に申し訳ありません。
来週は父の初盆などがあり、作業ができそうもないため、なんとか今月中をメドに、会員の皆様にお送りしたいと思います。

よろしければ、ツイッターhttps://twitter.com/murataquangもご覧下さい。
今日ご紹介したのは青葉奨学会に関するものだけですが、あくまでも個人的なツイッターですので、内容について苦情(?)などありましたら、私個人にお願いします。  


Posted by クアン at 23:33Comments(0)

2012年08月05日

マルセル・グエン運動員

ロンドンオリンピック、体操個人総合では内村くんが期待通りの活躍で見事な金メダルに輝きました。
内村選手に次ぐ銀メダルを獲得したのは、ドイツのマルセル・グエン選手。名前が「Nguyen」と出ていたので、ベトナム系なのかな、と思ったらその通りでした。お父さんがベトナム人で、お母さんがドイツ人なのだそうです。

このグエン選手、イケメンぶりが大評判で、ネット上で大変な人気だと聞きました。なんでも、TOKIOの松岡くんに似ているとか(私は男性アイドルにはまるで興味ないので、松岡くんの顔がわからないのですが…)。

ベトナム語のウィキペディアを見たところ、グエン選手はベトナムを2度訪ねたことがあり、これからも交流を続けて、父の故国のスポーツ界の発展のために役立ちたい、ということです。素晴らしい!

ところで、オリンピックを漢字で表記するとすれば、日本では「五輪」になります。ベトナムの場合も、「Olympic」が一般的なようですが、ほかに「the gioi van dong hoi」という言い方もあるみたいです。漢字で表記すると「世界運動会」。とても楽しそうですね。
漢字の「体操」は、ベトナム語では「the thao」。ただ、これはスポーツ一般を表す言葉で、日本語でいう「スポーツ」の感じになります。
オリンピックなどの種目の「体操」は、ベトナム語で何というか調べてみると、「the duc dung cu」。漢字にすると、「体育用具」。ベトナム語の場合、修飾語が後ろにくる特徴があるので、「用具体育」と考えていいでしょう。日本語でいうと「器械体操」という感じでしょうか。
でも、「体育用具」は、なんか微笑ましいです。

グエンさんのようなスポーツ選手のことは、種目によって言い方が違うのかもしれませんが、「vav dong vien」。漢字にすると、「運動員」。日本語の「運動員」だと、だいぶイメージが違いますね。

「ロンドンの世界運動会の体育用具で、グエン運動員が銀メダル獲得!」
おめでとうございます!  


Posted by クアン at 20:03Comments(0)

2012年06月27日

「学生の心つかむ名物先生」

昨日(6月26日)の琉球新報に、青葉奨学会沖縄委員会の会員にもなって下さっている那須泉さんが紹介されていました。
ご覧になっていない方もいらっしゃると思いますので、このブログに転載します。

琉流×Shiny 学生の心つかむ名物先生
琉大・人気講座の秘密探る

大学生ってどんな授業受けてるの!? 学生の目線から、「授業がおもしろく、受けてためになった!」「他の人にもお勧めしたい!」と思う科目を学生団体Shinyがリサーチ♪ 琉球大学の学生から多く名前が挙がった人気のある授業を受け持つ2人の先生に、「学生の心をつかむ授業」をする時の工夫や、先生自身の学生時代のお話をインタビューしてきました♪

ベトナム語 那須泉非常勤講師
調理実習で文化伝え

★講義内容★
ベトナム料理の一つで麺類の「フォー」。琉球大学のベトナム語上級の授業では、学期に一度のお楽しみ、調理実習がこの日の授業で行われました。ベトナム語の発音で書かれたフォーのレシピが配布され、生徒らは辞書を片手に翻訳、早速料理に取り掛かります。担当は非常勤講師の那須泉先生(51)で、言葉の勉強だけでなく、毎回菅笠(沖縄のくば笠に似た帽子)やアオザイなどのベトナム独自の道具を準備して、文化や風俗、歴史にも触れられるよう工夫しているそうです。

★授業での工夫★
授業で心がけていることは、ただ語学を学ぶというだけではなく、ベトナムの文化や歴史、風俗を紹介し、イメージを湧かせ、学生の興味を引き付けるという点だそう。

★学生時代★
ベトナム語を専攻していた大学2年ごろ、授業がつまらないと感じ、辞めようと思ったそうですが、「一度は東南アジアに行こう」と考えていたため、夏休みに1か月半、東南アジアを旅行したそうです。
当時はベトナム戦争後の混乱期ということもあり、ベトナムには行けず、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ニューギニアに行ったそうです。そこは、料理もおいしいし、人々は親切で感動しました。「東南アジアの国々がこうなら、ベトナムもいいところに違いない!」と思い、大学でベトナム語を学ぶことを続けました。
「あのときの東南アジア旅行がなければ、今のようにベトナム語を教える立場にはなってなかったかもしれませんね」と振り返っていました。

転載ここまで


那須さん、相変わらずの活躍ぶりです。「ベトナム語」というマイナーな科目の担当で、「学生から多く名前が挙がった」って、大変なことですよね…。
以前は、私たちのベトナム語講座も那須さんに担当していただいていたのですが、その後、大学などから引っ張りだこになり、多忙のためお願いできなくなってしましました。
またそのうち、一度だけでも「特別講座」などやっていただけると嬉しいです。  


Posted by クアン at 23:21Comments(0)会員から

2012年02月20日

会員の皆様へのお詫び

2月も下旬になってしまいました。
例年、生徒たちの新しい履歴票を1月半ばまでにお送りしているのですが、今年は個人的な事情が重なり、準備が大幅に遅れています。

現在、履歴票の翻訳はほぼ終わっていますが、手紙の翻訳がまだ数十通残っており、急いで進めているところです。
遅くとも3月半ばまでには、生徒たちの履歴票と手紙、会報をお送りしたいと思っています。
すみませんが、もう少しお待ち下さい。

円高が続いていますので、今年は会費をできるだけ値下げしたいと考えています。
厳しい経済状態が続いていますが、可能な方は、今年も生徒たちへのご支援を続けて下さるようにお願いします。  


Posted by クアン at 19:27Comments(0)

2012年01月15日

2012年の支援について

新しい年が明けたと思ったら、もう1月も半分が過ぎてしまいました。
久しぶりのブログ更新です。

昨年の後半は、アパート立ち退きのための引越しをはじめ、いろいろとバタバタして(自転車も盗まれたりした…)、更新を怠っていました。
申し訳ありません。

青葉奨学金は、毎年1月から12月までの1年分を送っていますので、奨学金も1月が更新の時期です。
今年は、ベトナムから要望のあった110名に、奨学金の支援をする予定です。
小学生が44名、中学生が41名、高校生が25名です。
今年は、新規の生徒の支援は行いません。

生徒たちの新しい履歴票は、正月休みに翻訳を終わらせたのですが、昨年後半に届いた手紙の翻訳が、まだ済んでいません。
今回の手紙は、生徒たちの生活の様子が具体的に書かれていて、興味深い内容のものが多いです。
できるだけ早く翻訳を終わらせようと思っているのですが、そもそも実力不足なのに加えて、仕事から帰るとついビールを飲んで眠くなってしまうので、なかなかはかどりません。
メドが立ちましたら、履歴票と手紙、振込用紙を会員の皆様にお送りします。
あと新しい会報も作らないと…。

ベトナムは経済発展の真っ只中ですが、ほとんどの奨学生たちは、厳しい家庭状況の中で頑張っています。
これからも、できる範囲でのご支援を、よろしくお願いします。  


Posted by クアン at 20:36Comments(0)連絡先ほか

2011年09月21日

気仙沼に行ってきました

3月11日の震災のあと、私たちのグループでは、国際ボランティアセンター山形(IVY)という団体にわずかばかりの支援金を送りました。
ベトナムへの送金が円高で節約できたので、浮いた分を被災地支援に回そうと話し合ったのです。

IVYは、震災後すぐに、隣りの宮城県で被災者支援の活動を始めていました。
初めは支援物資の配達や炊き出しが主な活動でしたが、震災からしばらく経ったころ、「キャッシュ・フォー・ワーク」という取組みを始めたことが、ブログに書かれていました。

被災地では、津波で多くの方が職場を失いました。
一方、お年寄りだけの世帯など、家に入り込んだ瓦礫やヘドロの除去をしたくてもできない方が多くいらっしゃいます。
そこで、失業した被災者の方をIVYが雇用して、依頼のあった家の瓦礫やヘドロの片づけをしてもらい、支援者からの寄付金で給料を支払う、という仕組みを作ったのです。

初めは石巻で、続いて気仙沼でもこの取り組みがスタートしました。
この方法は2003年のスマトラ大津波や、昨年のハイチ大地震のさいにも、日本のNGOが被災地で実施して、大きな成果を上げたそうです。

先月、IVYから「キャッシュ・フォー・ワーク支援ツアー」のチラシが送られてきました。
今回は気仙沼を訪れて、被災地の状況を見たり、実際に泥上げ作業を体験したりする、というプランです。
沖縄から行くのはちょっと遠いのですが、実際に自分の目で見てみたいと考え、思い切って参加することにしました。

9月17日朝、東京から新幹線で一ノ関へ。ここで山形からのバスに合流しました。
参加者は30名余り。関東や関西、岡山など、各地から集まった方々で、年齢もさまざまです。

正午前に気仙沼に着きました。気仙沼市は人口7万人余りの地方都市ですが、日本有数の漁港がある、水産のまちです。
3月11日には20メートルもの津波が押し寄せ、気仙沼市だけで死者1017名、行方不明387名(9月中旬の時点)という大変な被害を受けました。
大津波に見舞われたあとに、火事が発生。火災は広範囲に拡大し、辛うじて残った建物も、多くが燃えてしまったそうです。

私たちは、IVY気仙沼のリーダーTさんの案内で、まずバスの中から被災地を見学しました。
震災からは、もう半年余りが経っています。被害が甚大だったといっても、ある程度は片付いているのでは、と思っていたのですが、現実は違っていました。
車窓の外には、目を疑うような光景が広がっていました。

Tさんは、複雑な気持ちを語ってくれました。
「外から来た人たちが、被災した場所を見て回ったり、写真を撮ったりするのは、地元の人にとっては本当は気持ちのいいことではありません。でも、現状を多くの人に知ってほしいし、伝えてほしい。遠慮せずに写真を撮って下さい」
私も、罪深いような気持ちをどこかで感じながら、写真を撮りました。









このときは干潮だったのですが、満潮時にはこの一帯は海水に浸かってしまうそうです。

今回の震災で瓦礫の撤去や復興がなかなか進まないのは、被災した範囲があまりにも広いということもありますが、復興に向けた方針がなかなか決まらない、ということもあるようです。
元の場所に街を再建するのか、それとも津波の危険の少ない高台のほうにできるだけ移していくのか、など、難しい問題があって、方向性が定まらないのだそうです。

その後、交流会と昼食会になりました。
現地のスタッフや、雇用されて働いている方々が紹介されました。多くは20代から30代前半ぐらいの若い人たちです。
石巻のスタッフの方々も、交流会に駆けつけてくれました。





スタッフの方々が、炊き出しに熟練しているということで、昼食会はこの日も炊き出しの形式になりました。
外から支援(?)に来た私たちが、よりによって地元スタッフの炊き出しのお世話になるとは…。

例年と比べると数分の一だそうですが、気仙沼ではカツオやサンマの水揚げが始まっています。
昼食のメニューは、カツオのたたき、サンマの塩焼き、サンマのつみれ汁、そして気仙沼の米で作ったおにぎり、という豪華なものでした。



食事をいただきながら、被災者の女性の方のお話しを聞きました。
この方の家は、津波をかぶりましたが辛うじて流されることはなく、そのあとの火災も何軒か手前で止まったそうです。
ただ、家は瓦礫とヘドロに覆われてしまい、とても自力で片づけができる状態ではありませんでした。
途方に暮れていたところでIVY気仙沼の活動を知り、片づけを依頼したそうです。
「このチームの若者たちの働きぶりは素晴らしかった、本当に感謝している」と嬉しそうに話されていました。
いまは仮設住宅に住んでいますが、いずれは元の家に戻りたいということでした。

スタッフの方に昼食のお礼を言うと、笑顔で「食べた分は働いてもらいますよ」。
どれだけ役に立つかは別として、こちらもそのつもりです。

作業着に着替えて、いよいよ作業体験です。
1階が食堂、2階と3階が住居だった建物での、瓦礫やヘドロの片付け作業。
スコップでヘドロをかき出したり、土嚢袋に詰めたヘドロを運び出したりして、すぐに汗だくになります。
ヘドロといっても、泥だけでなく、ガラスやら金属片やら瓦やら、いろんなものが一緒になって埋まっています。

慣れない私たちが安全に作業できるように、あらかじめスタッフの方々がある程度片付けてくれていたようです。
それでも、土砂に埋まっていた何枚かの瓦を手で取り除くと、その下のヘドロは相当な悪臭がしました。
かなり危険でしんどい作業ではあります。





2階も泥に覆われていました。壊れたオルガンを2階から運び出しながら、震災前の穏やかな暮らしを思いました。



2時46分の激震のあとも動き続けた時計。津波に襲われた時刻で止まっています。



建物の中から運び出した土砂や瓦礫が、外に積まれています。
白いシャツの男性は、地元紙「三陸新報」の記者さん。震災の日にも自家発電で印刷して、なんとか新聞発行を続けたそうです。

時間に限りがあって、実質的に作業をしたのは1時間ほど。
少しは役に立ったのか、それとも邪魔をしただけのことだったか、微妙なところかもしれません。
それでも、たくさんの人たちが遠方から関心を持って集まった、ということで、現地のスタッフの方々も喜んで下さったようです。



キャッシュ・フォー・ワークで働いている若者たちがみんな笑顔だったことを、心強く思いました。
もちろん、みんなそれぞれ家族や友人を失い、家を失い、職場を失った人たち。私たちには想像もできないような痛みを抱えているはずです。
それでも、汗を流して働き、生まれ育った街の復興に貢献している、ということが、大きな心の支えになっているのだと思います。

キャッシュ・フォー・ワークの取り組みは、来年3月まで続ける予定だそうです。
最終目標は、働いている人たち全員が、再就職できることです。難しい課題ですが、みんな前向きに頑張っている様子に、こちらのほうが力づけられました。
できる範囲で、これからもこの取り組みを支えていきたいと思います。  


Posted by クアン at 00:56Comments(0)

2011年09月06日

北部訓練場での枯葉剤実験

今朝の沖縄タイムスを見て驚きました。
1面トップに「北部に枯れ葉剤散布」「立案の元米高官証言」「ベトナム実戦前試す」の見出し。

「北部訓練場で枯れ葉剤散布」というのは、4年前にも大きく報道されました。
私たちも、その記事にショックを受けて、ささやかなものですが枯葉剤についての勉強を始めました。

しかし、米軍は沖縄での枯葉剤貯蔵・散布について否定し続けてきました。
それが、今朝のタイムスの記事では、枯葉剤散布作戦を立案した元高官が沖縄での試験散布を証言したというのです。

タイムスの記事はこちらです。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-09-06_23051/

1面の記事を、以下に転載します。

【平安名純代・米国特約記者】米軍がベトナム戦争での実戦を前提に、1960年から約2年間にわたり、国頭村と東村の米軍北部訓練場内と周辺一帯で猛毒のダイオキシンを含む枯れ葉剤「オレンジ剤」の試験散布を実施していたことが5日までに分かった。
当時の枯れ葉剤散布作戦の立案に関わった米陸軍の元高官が沖縄タイムスの取材に対して明らかにした。

米軍は61年から始めたベトナムでの枯れ葉剤作戦の本格展開を前に、沖縄でその効果を試していた。
沖縄での枯れ葉剤使用に関する公式記録がないことから、これまで米軍は作戦そのものを否定してきたが、今回の証言はこうした事実の立証につながるものといえそうだ。

米軍が沖縄に枯れ葉剤を貯蔵、散布していた事実は当時作業に携わった元米兵らが証言しているが、散布を裏付ける元当局者の証言は初めて。

作戦が立案された背景について元当局者は、「南ベトナム解放民族戦線が潜むジャングルの絶滅を目的としていた」と説明。
北部訓練場を選んだ理由について「制約もなく、気候や立地状況などがベトナムのジャングルに似ていたことから、実戦を想定したものだった」と述べた。

初期段階での散布には、米陸軍化学兵器部隊が立ち会い、データの収集などを行ったという。

試験散布の詳細について、「散布から24時間以内に葉が茶色く枯れ、4週間目にはすべて落葉した。週に1度の散布で新芽が出ないなどの効果が確認された。具体的な散布面積は覚えていない」と話した。
収集したデータは、ベトナムでの作戦に反映されたという。

米軍の枯れ葉剤散布はこれまでに、オーストラリア(66年)、カナダ(66~67年)、韓国(68年)で各国の軍関係文書などでそれぞれ確認されている。
沖縄での枯れ葉剤使用については、元米兵らが証言してきたものの、散布を示す公式書類がないことから使用そのものを否定している。

(転載ここまで)

私たちが枯葉剤について調べる中で、米軍が1960年代初めに北部訓練場で枯葉剤散布を行ったのは、ベトナムでの本格的な使用に向けた実験目的だった可能性が高い、と考えるようになりました。
ただ、沖縄で実験を行なっていた、という具体的な証言は、これまでありませんでした。
沖縄での枯葉剤について、退役軍人たちの貴重な証言を集めているジョン・ミッチェルさんも、実験に関わるような証言は聞いていない、とおっしゃっていました。
実験についての証言は、出てこないかもしれない、と思っていました。

ところが、今朝のタイムスの記事では、作戦を立案した元高官の証言で「沖縄での試験散布」というのが出てきたわけです。
やはり、米軍の枯葉作戦全体にとって、沖縄の基地が決定的に重要な役割を果たしていたのでしょう。
枯葉作戦の中でまったく知られていなかった部分を初めて明らかにした、大変な証言だと思います。
平安名純代さんの地道な取材に、敬服します。

試験散布がどのような規模で行われたのかなど、まだはっきりしない部分が多いですが、散布の状況次第では、現在でも汚染が続いている可能性はあると思います。
北部訓練場とは別ですが、枯葉剤の入った大量のドラム缶を北谷に埋めたという証言もあります。
タイムスの記事でも強調されているように、米政府の情報開示と、環境調査が必要です。  


Posted by クアン at 20:50Comments(0)沖縄基地とベトナム