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2013年12月01日

飯舘村・浪江町を訪ねて

青葉奨学会沖縄委員会とは関係ないのですが、9月末に、東電原発事故の被災地である福島県飯舘村と浪江町を個人的に訪ねる機会がありました。
昨年亡くなった父のお骨を故郷の三春町のお寺に納めたこともあって、ここ2年ほど福島県に頻繁に行っていますが、避難区域には行ったことがなく、どのような状況なのか気になっていました。
「ふくしま会議」のスタディーツアーで飯舘村と浪江町を訪ねると聞き、思い切って行ってきました。

出発地点の福島駅から南東に進み、川俣町を経て飯舘村に入ります。
川俣町では、山間の田んぼに黄金色の稲穂が実り、稲刈りをしている方々の姿がありました。

そのおだやかな光景は、飯舘村に入ると一変します。
飯舘村は山に囲まれた美しい村なのですが、かつて田んぼだった土地は草むらになるか、除染のため表土をはぎ取られて、見る影もなくなっていました。

飯舘村・浪江町を訪ねて

飯舘村・浪江町を訪ねて

除染ではぎ取られた土は、フレコンバッグに詰められ、村のあちこちに積み上げられていました。この日は日曜日なのであまり見かけませんでしたが、平日には多くの除染業者の方々が作業をしているそうです。

飯舘村・浪江町を訪ねて

一度除染した場所も、時間が経つと再び線量が上がってしまうこともあるそうです。
私は除染は必要だと思っているのですが、飯舘村の除染は、気の遠くなるような困難や矛盾を抱えているのも事実だと思います。

飯舘村については、村出身の佐藤健太さんが案内をしてくれました。
佐藤さんは、震災直後から積極的に発信を続けてきた青年です。

飯舘村・浪江町を訪ねて

佐藤健太さんの実家は、テトラポットの型枠をつくる仕事。震災から数日後、注文に間に合わせるためにお父さんは営業を再開、高線量を心配した健太さんは、お父さんと何度も言い争ったそうです。一方、風評被害は金属製品にも及び、謂れのない中傷を受けることも少なくなかったとのこと。

「かつての飯舘村に戻れるなら、何の迷いもなく帰りたい。でも現状の村に戻りたいかというと…。『村に戻る・戻らない』の間で揺れ続けて、心が疲弊していく…」。
村の若者としての悩ましい思いを、佐藤さんは率直に語ってくれました。

飯舘村の秋はキノコ採りの季節。腰の曲がったじいちゃん・ばあちゃんたちも張り切って山に入り、沢山のキノコを採ってきて味わう、何よりも楽しい季節だったそうです。
飯舘村でも、北部の一部は「避難指示解除準備区域」になっています。でも、村に戻れたとしても、山の幸を楽しむ暮らしは、当面取り戻せないかもしれません。
山村の豊かな暮らしや文化が、原発事故によって、根こそぎ奪われてしまったのです。

飯舘村を抜けて、南相馬市に入りました。
原町区は一見普通の街並みなのですが、20キロ圏内(旧警戒区域)の小高区、そして浪江町に入ると、沿道の様子ががらりと変わりました。
ところどころ自動車がひっくり返っていたり、がれきが積み上げられていたり、津波で打ち上げられた漁船が転がっていたり…。これは震災直後ではなく、今年9月末の様子です。

飯舘村・浪江町を訪ねて

津波のため、南相馬市では630名以上、浪江町では180名以上の人の命が失われました。浪江町の海岸近くには慰霊碑が立っていました。

飯舘村・浪江町を訪ねて

請戸港の近くの海岸に出ました。約3キロ南にある東電福島第一原発の排気筒が見えました。
現場では、命がけの厳しい収束作業がいまも続けられており、地元の被災者も多く携わっています。

飯舘村・浪江町を訪ねて

電柱には「東北電力」の表示がありました。歩いて行けるほど近い場所に巨大な発電所があるのに、そこでつくられた電力はすべて東京など首都圏に送られていたのです。
私も東電の電気の恩恵を受けてきた人間であり、飯舘や浪江の現状は決して他人事ではないと思います。

浪江駅近くの通りを歩きました。崩れたままの建物。ガラスが散乱した歩道…。(最近になって、ようやく倒壊した建物の片づけが始まったそうです)

飯舘村・浪江町を訪ねて

飯舘村・浪江町を訪ねて

飯舘村・浪江町を訪ねて

人影のない街にアナウンスが響きました。「浪江町への立ち入りは午後4時までです。4時までに町を出られるように準備を始めて下さい。スクリーニング場は5時までです」。

この付近の放射線量は低く、毎時0.1~0.2μSV/h程度だそうです。
内陸部に入ると線量は上がり、今でも10μSV/hを超える場所もあります。同じ浪江町でも、100倍以上の差があるようです。線量の高い地域は「帰還困難区域」となり、帰れるメドはまったく立っていません。

福島民報の販売店の中を覗いてみると、「東北地方に大地震」を告げる新聞が、そのまま積まれていました。1号機が爆発した3月12日の朝、新聞を配る余裕もなく、避難を迫られたのでしょう。

飯舘村・浪江町を訪ねて

常磐線・浪江駅の中を見ると、「大地震のため終日運行を見合わせます」との掲示がありました。
この町の時間は、2年半前から完全に止まってしまったかのようです。

飯舘村・浪江町を訪ねて

浪江町を流れる請戸川。秋にはサケが遡上する美しい川です。
上流の山々は線量が高いため、川底にはセシウムが貯まってしまっているとのこと。

飯舘村・浪江町を訪ねて

バスの中で、たまたま隣になった牛来(ごらい)美佳さんに、いろいろお話しを聞かせてもらいました。浪江町の出身で、小学生の娘さんと一緒に群馬県に避難しているそうです。東電の下請け会社の職員で、震災の日も福島第一原発の事務所で働いていたとのこと。シンガーソングライターでもあります。

震災の翌日、牛来さんは原発の事故を知らずに「次の津波を避けるため?」と思い、指示に従って内陸部の津島地区に避難したそうです。全国の多くの人たちが息をのんで福島第一原発を見つめていたあの時、昨日までまさにそこで働いていた女性が、何の情報もなく幼い子どもを抱えてさまよっていたとは…。

牛来さんの家は、私たちが歩いた浪江駅のすぐ近くにあるそうです。「どうして自分や家族や友人たちがここに存在していないのか?これが夢であってくれたら、とずっと思い続けている。最近も、希望を失って自ら命を絶ってしまった知人がいる。これからが本当のたたかいだと思う」。

牛来さんの歌『浪江町で生まれ育った』。
「ぼくらの町は 海も山もある 素晴らしい自慢の町さ」
「どうかいつか帰る 道をいまここで信じて」



震災から2年半以上が過ぎ、私の知る限り、福島県の人たちの暮らしはずいぶん落ち着きを取り戻してきているように思います。
多くの人たちの努力によって、農産物などの汚染は、(一部の品目を除くと)とても低いレベルに抑えられています。
福島県産の米は、全量全袋検査が行われています。私は、毎日福島産の米を美味しく食べています。

福島県には本当に多様な現実があって、一言で言い表せるようなものではありません。
でも、原発事故のために凄まじい被害をこうむっていることは否定しようがありません。
私はほんの一端を見てきただけですが、避難区域となった地域の困難さは、想像を絶するものでした。

数万人もの人たちが、いまも理不尽に故郷を奪われ続け、避難生活の中で命を落とした方々も少なくないこと、決して忘れてはいけないと思います。
いまも故郷に帰ることのできない飯舘村や浪江町の人たちのこと、心のどこかに刻んでおきたいのです。



Posted by クアン at 19:42│Comments(0)
 
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