「沖縄におけるエージェント・オレンジの証拠」

クアン

2011年04月18日 22:15

高里鈴代さんの知人の方から、沖縄での枯葉剤の貯蔵・使用についての情報をいただきました。
ジャパンタイムス4月12日付けに掲載されたものです。
沖縄での枯葉剤については情報が少ないので、とても重要な情報だと思います。
沖縄での枯葉剤使用の実態や汚染状況について明らかにする上で、貴重な手がかりになるかもしれません。
以下、転載します。


4/12ジャパンタイムスに米軍による沖縄での枯葉剤について記事が掲載されています。
日本語訳が送られてきたので参考まで。

オリジナル英文はここ
http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fl20110412zg.html

2011年4月12日
「沖縄におけるエージェント・オレンジの証拠:米退役軍人たちが、その健康被害と正義の闘いを語る」
ジョン・ミッチェル
『ジャパン・タイムズ』への特別寄稿

1960年代末、ジェイムズ・スペンサーは沖縄の軍港で働く米海軍の港湾労働者だった。
「この頃、私たちはあらゆる種の積荷を扱っていました。オレンジの縞模様の入ったこの缶も含まれていました。荷下ろしのときに、それがこぼれて『エージェント・オレンジ(Agent Orange: ヴェトナム戦争時、米軍が使用した枯葉剤のひとつ)』をかぶっていたのでしょう。まさに雨を浴びるようにね」。

1965年から1967年の間、ラマー・スリートはこの島のキャンプ・クエの衛生兵だった。
「エージェント・オレンジは嘉手納(空軍基地)に貯蔵されていて、沖縄の植生管理に使用されていました。私は個人的に軍病院のグラウンドの周囲で噴霧作業班を見かけたことがあるし、服に枯葉剤が染みこんだ作業員がER(救急救命)に運び込まれたときに、その場に立ち会ったこともあります」。

1970年、ジョー・シパラは、沖縄本島中部にある泡瀬通信施設に勤務していた。
「アンテナは『ミッション・クリティカル(mission critical: 24時間365日稼働を要求される基幹的システム)』に分類されていたため、周囲に雑草が生い茂ることは許されません。数週間おきにトラックが来て、この施設のエージェント・オレンジの缶を充填していました。それを混合して境界線のフェンス周辺の雑草に噴霧するのが私の担当でした」。

『ジャパン・タイムズ』紙のためにインタビューに答えたこの3人の退役軍人だけでなく、退役軍人管理局(V.A.)の記録には、1960年代末から1970年代初頭にかけて沖縄で使用されたエージェント・オレンジについて、数百に上る同様の証言が存在する。
当時、この島は米国支配下にあり、ヴェトナムにおける米国の戦闘の前線基地としての役割を担わされていた。
これらの証言が明らかにするのは、ダイオキシンを含む枯葉剤が、戦闘地域に移送される前に、沖縄に大規模に貯蔵されていただけでなく、軍事施設の除草や、北部の山原(やんばる)のジャングルでの実験に定期的に使用されていたという事実である。

島におけるこの長期で広範囲にわたるエージェント・オレンジの使用は、それを取り扱った兵士の多くに深刻な病状をもたらした。
スペンサー、スリート、シパラは、現在、癌、2型糖尿病、虚血性心疾患など、止めどなく続くダイオキシンにまつわる症状に悩まされている。
さらに、シパラの死産となった最初の子は、赤ん坊が日の目を見なかったことを感謝するべきだと医者に言われるほどの奇形で、生誕したふたりの子どもはエージェント・オレンジによる中毒症状と合致する奇形に冒されている。

もしもかれら退役軍人たちが、ヴェトナムで[枯葉剤を]浴びていたならば、米国政府は有害な枯葉剤に接したすべての兵士を承認しているため、V.A.による医療費の補助を受けることができただろう。
しかし、かれらは沖縄で被害に晒されたために、その補償要求は、この島でのエージェント・オレンジの存在を認めない国務省のために、繰り返し拒絶されてきた。
2004年7月、統合参謀本部議長リチャード・マイヤーズ大将が、政府の「記録には沖縄におけるエージェント・オレンジやその他の枯葉剤の貯蔵や使用を裏付ける情報は一切ない」と発表したのは、こうした姿勢を示すもっとも最近の一例である。

このような否定のために米退役軍人がV.A.から補償を勝ち取るのが困難になっている。
シパラの例は、退役軍人が向き合う困難を如実に示している。
彼の軍命令書は、当時かれが沖縄に駐留していたことを示しているし、彼の病歴は、ダイオキシン被曝の症例に合致する。
バイクに乗ってエージェント・オレンジの缶の横を通り過ぎる彼の写真は、決定的証拠として、彼のケースが退役軍人たちを代表すべきことを物語っている。

11ヶ月に及ぶ協議の後、V.A.は、二つの根拠を挙げてシパラの要求を拒絶した。
第一に、被曝によって病気が進行したという証拠がない。
シパラはこれに反論している。「沖縄から帰還した直後に糖尿病を発症したことは、私の医療記録から明らかです。なぜその当時の医者は、それがエージェント・オレンジによるものだと言わなかったのでしょうか。それが1970年のことで、まだ誰も被曝の危険性についてよく知らなかったからです。」

第二に、V.A.は、「日本の沖縄における、あなたの隊の兵員による、エージェント・オレンジの噴霧、試験、貯蔵に関するいかなる証拠も見つけることができなかった」と言った。

この言葉は、V.A.が却下する際に共通の表現で、そのことが、シパラを困惑させた。
「記録がないからという理由で、どうして却下しつづけられるのか、理解できない。だれでも枯葉剤を使っていた沖縄で、1998年裁定が当てはまるのは限られたひとつの例だけだなどと誰が信じると思うのか。」

シパラが言っているV.A.の裁定というのは、2007年に報告され世界的なニュースになったものだ。
1998年1月付けで、1961年から62年の間に沖縄の路肩に噴霧しトラックで運搬したエージェント・オレンジを浴びたと主張した退役軍人の事件に関する1998年1月付けの裁定のことである。兵士はそのために前立腺癌を患った。
V.A.は、「この退役軍人が沖縄で軍務中にダイオキシンに晒された可能性を根拠づける信頼できる証拠がある」と退役軍人の側に立つ結論を出したのである。

この裁定は、最終的に米軍がこの島でエージェント・オレンジを使用したことを認める道を拓くだろうという期待をもたらした。
今日に至って、しかし、1998年裁定は、沖縄駐留軍人のうちただひとつの成功例にとどまっている。
何年にもわたってV.A.は、先の決定は判例として確立していないと、何百という同様の要求を却下している。
2010年のある却下の文書には、「それぞれの事件は、個別の事実に基づいて決定される」なる文言が書かれていた。

しばしば、V.A.は、エージェント・オレンジの使用に関して手書きの文書証拠を求める。
そのような文書は、しかし、追求不可能であることが判る。化学品を浴びた兵士の入院記録が事件直後にいかに紛失するものか、スリートはよく知っている。
シパラは、「手書きの命令書など存在しない。我々は何をしろと口頭で言われ、それをしたのだ。国防省は起こったことを簡単に忘れることができるような仕組みになっているんだ」と言い足した。

当時の軍事行動の機密度が、退役軍人が沖縄についての情報を入手することをいっそう困難にしている。
たとえば、1960年代を通じて、アメリカが生物化学兵器を貯蔵していただろうと沖縄住民は考えてきた。
しかし当局は1969年になって、神経ガスが漏れ23名の米兵が負傷するまで、この主張を認めなかった。
この事件をめぐる国際的な非難の高まりを背景に、軍は、レッドハット作戦を実行した。
1万2000トンもの毒ガス兵器を沖縄から太平洋の真ん中にあるジョンストン島へ移送する、8ヶ月に及ぶ作戦である。

退役軍人の多くは、軍が、エージェント・オレンジの備蓄の大部分もレッドハット作戦の間に同時に移送したと信じている。
かれらの推測がどうやら正しいことを示すのは、「レッドハット作戦の記録が、1969年8月から1972年3月にかけて、沖縄に枯葉剤が貯蔵され、後に廃棄されたことを示している」という2009年のV.A.の裁定だ。

マイヤーズの2004年の否定と直ちに矛盾するこのような文書は、救済を求める退役軍人をいらだたせ続けている。
しかし、楽観できる見通しもある。
2000年まで、米国政府は、軍による枯葉剤使用はヴェトナムのみだったとしてきた。
しかし、1968年から1971年にかけて、韓国の非武装地帯での使用を証拠が明らかにし、当時そこに駐留していた退役軍人にダイオキシン関連の医療費支給が認められた。
同様に、グアムにおけるエージェント・オレンジ被曝の退役軍人を支持するV.A.の裁定に引き続き、バラク・オバマ大統領は、軍隊の枯葉剤配備地域のリストにミクロネシア領を加えるよう求める圧力をかけられている。

沖縄を、この増え続けるリストに加える可能性について問われた際に、ヴェトナム戦争海軍退役軍人会の議会における代弁者であるジェフ・ディヴィスは、三方向による取り組みを実施するよう助言した。

「第一に、噴霧器を背負ったり、トラックに積み込んだり、ヴェトナムを往復する輸送船からの積み込みや積み卸し作業を補助したということを証言する個々の宣誓供述書。次に、沖縄に駐留した退役軍人の間に、エージェント・オレンジ関連と公認されている一連の疾患の罹患率が非常に高いという調査。最後に、科学的根拠、すなわち、ダイオキシンの存在を示す飲料水や土のサンプル(を集める必要がある)」。

この最後の点は、退役軍人たちに枯葉剤関連の疾病を証明できる希望の道を拓く。
しかし、それは同時に、恐ろしい予想を招来する。
ダイオキシン被曝は、現在駐留中の米兵とその家族たちにも及んでいるかもしれないということだ。
退役軍人の説明でもっとも多く言及される地域は、嘉手納空軍基地と、北部訓練場で、現在もなお、米軍の管理下に置かれ続けている場所である。
皮肉にも、このことは、危険性をアメリカ管理地域に閉じ込めることによって、沖縄の市民の大多数を、ダイオキシン被曝から守っていると言えるのかもしれない。
2009年、科学者たちは、ヴェトナムで、戦中に米国がエージェント・オレンジを貯蔵していたダイオキシン危険地帯を発見した。
正確に類推するならば、沖縄の現在の基地は、軍の枯葉剤によって重度に汚染されたままということになるだろう。

いずれにしても、政府が、かつて国に仕えた人々への義務を無視し続ける間に、V.A.に要求を拒絶され続ける何百という退役軍人たちが、いっそう病に冒され続ける日々が続くのだろうと、シパラは考えている。
「退役軍人の間では、V.A.の非公式のモットーとは『認めない、認めない、彼らが死ぬまで』だと言わ
れている。政府にかれらが行ったことを認めさせる唯一の方法は、私たちがもっとたくさん立ち上がって、世界に向けて自分たちのことを話すことだ」。

本稿発表の時点において、『ジャパン・タイムズ』のコメントの要求に対し、米国退役軍人管理局も、国防省も、無回答のままである。

沖縄とエージェント・オレンジに関する経過
1952 サンフランシスコ条約で沖縄は米国管理下に
1962 米空軍、沖縄で米の収穫に生物兵器実験
1963 米輸送船、おおよそ1万2000トンの生物化学兵器を沖縄に搬入
1969 嘉手納空軍基地で神経ガス漏れ、23人の米兵が病院へ
1971 レッドハット作戦、生物化学兵器の在庫をジョンストン島へ移送
1972 沖縄の施政権が日本へ返還される
1998 V.A.沖縄のエージェント・オレンジ被曝を主張する退役軍人に賠償
2004 米政府、沖縄におけるエージェント・オレンジを否定
2009 V.A.決定、レッドハット作戦にエージェント・オレンジが含まれていたことに言及

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