
2012年11月22日
勉強会でお話ししたこと
1か月ほど前、「琉球自治州の会」と「沖縄うまんちゅの会」の勉強会で、青葉奨学会沖縄委員会のことをお話しする機会がありました。
10名ぐらいの方が来て下さっていたのですが、ベトナム戦争の頃に基地で働き、全軍労の闘争に参加された方もいて、ベトナムの話に強い関心を持ち、熱心に耳を傾けて下さいました。
その時に「話の内容をまとめて原稿を書くように」と頼まれていたのですが、すっかり忘れていて、先日電話で催促を受けて慌てて書きました。
せっかく書いたので、このブログにも掲載します。
9月のある日、世話人の大村さんたちと、たまたま一緒に飲む機会がありました。
あれやこれや楽しく話しながら飲んでいたら、気がついてみると「来月の勉強会は、あなたが話をするように」ということになっていました。
私に与えられたテーマは、「沖縄とベトナム~国際交流の現場から」。
私は仕事の合間に事務局の作業を細々と続けているだけなので、「国際交流の現場から」というのは大変おこがましいのですが、私が関わっている「ベトナム青葉奨学会沖縄委員会」ができるまでのいきさつや、支援先を訪ねて思ったことなど、ざっくばらんにお話しさせていただきました。
拙い話に熱心に耳を傾けて下さった先輩方に、感謝いたします。
「ベトナム青葉奨学会沖縄委員会」は、グエン・ドゥック・ホーエさんというベトナム人の呼びかけに、高里勝介さん(故人)・鈴代さん夫妻が応じて始まったものです。
ホーエさんは、1959年に南ベトナムから来日、60年代に東大や京大で学びました。
故国ベトナムで戦火が広がっていく中、ホーエさんは留学生のリーダー的存在として、東京で「東遊学舎」という寮を作り、困難な境遇にある仲間たちを支え励まし続けました。
1965年に米軍が北爆を開始したとき、真っ先に霞が関で反戦デモを行ったのも、ホーエさんたちベトナム人留学生だったそうです。
また、1970年代初めには、戦時下の故国の子どもたちを少しでも励まそうと、日本人にも呼びかけて「兄弟奨学会」という団体を作り、奨学金を送る活動を始めました。
その会の事務局は、当時東京の早稲田奉仕園で仕事をしていた高里さん夫妻の自宅に置かれていたということです。
ホーエさんは、1974年にサイゴンに帰っていきました。
その頃には北ベトナム側の優勢は明らかで、共産主義に批判的なホーエさんが帰国することには、周囲から強い反対の声もあったそうです。
しかし、ホーエさんにすれば、故国がいちばん厳しい時期に同胞と離れていることは、耐え難かったのでしょう。
翌年にはベトナム戦争が終結、革命の混乱の中でホーエさんの消息は途絶え、「兄弟奨学会」の活動も中止せざるを得ませんでした。
それから20年近くが過ぎた1993年、ある日のNHKニュースにホーエさんが登場しました。
ドイモイ政策で変化の兆しを見せるベトナム・ホーチミン市で、「新しい国づくりは人づくりから始まる」と教育に情熱を燃やしている姿が紹介されたのです。
それを偶然見ていた高里夫妻はさっそくホーエさんに連絡を取り、ベトナムを訪ねました。
ホーエさんはドンズー日本語学校を設立し、また貧困家庭の子どもたちが安心して学校に通えるように、新たに奨学金支援の活動を始めていました。
ホーエさんの要望を受けて、高里夫妻が友人たちに呼びかけて1994年に始めたのが「ベトナム青葉奨学会沖縄委員会」です。
物価の安いベトナムでは、年間数千円から1万円ほどあれば、学費や教材費などを賄うことができます。
私たちはホーチミン市にある事務局を通して、ベトナム各地の小・中・高校生にささやかな支援を続けてきました。
私は15年ほど事務局を担当しています。主な仕事は、手紙や書類の翻訳です。
地味な作業ですが、毎年手紙を読んでいると、生徒一人一人の個性が見えてきたり、成長ぶりを実感させられたりすることもあり、楽しい仕事です。
また、何度かベトナムツアーを企画し、生徒たちを訪ねて交流の機会を持ちました。
私たちが支援する生徒たちのうち約半数は、ホーチミン市の南東に位置するカンザーという地域に住んでいます。
初めてカンザーを訪ねたのは1998年。樹高10メートル以上ある広大なマングローブの森に感嘆していると、「ここの森は天然の森ではなく、すべて住民が植林したものです」と聞かされ、さらに驚きました。
ベトナム戦争時、この地域はゲリラの拠点となり、米軍が繰り返し枯れ葉剤を散布、大半の森が枯れてしまったのだそうです。
戦後、行政や住民が地道に植林を続け、元の森の約3分の2を蘇らせたということです。
昨年あたりから、ベトナム戦争期に沖縄の米軍基地に枯れ葉剤が貯蔵され、運び出されていたという証言が数多く出てきています。
カンザーの森を破壊した枯れ葉剤も、もしかすると沖縄から運ばれていたのでしょうか。とても複雑な思いに駆られます。
会の設立から20年近く経ち、多くの元奨学生が、さまざまな分野で活躍を始めています。
長年のホーエさんの苦労や想いが実を結びつつあること、私たちもほんの少しですがそれに加われたことを、嬉しく思っています。
勉強会の話の最後に、フィン・タオ・チャンさんという元奨学生が書いたブログを紹介しました。
行商(露天商)の仕事をして自分たちを育ててくれたお母さんへの思いを書いた素晴らしい文章です。
話しているうちに、私もいろんな思いがこみあげてきました。
下手な翻訳ですが、チャンさんの文章を日本語でインターネットにアップしていますので、可能な方は読んでいただけると幸いです(「母さんの仕事」で検索できます)。http://aobaokinawa.ti-da.net/e3529520.html
10名ぐらいの方が来て下さっていたのですが、ベトナム戦争の頃に基地で働き、全軍労の闘争に参加された方もいて、ベトナムの話に強い関心を持ち、熱心に耳を傾けて下さいました。
その時に「話の内容をまとめて原稿を書くように」と頼まれていたのですが、すっかり忘れていて、先日電話で催促を受けて慌てて書きました。
せっかく書いたので、このブログにも掲載します。
9月のある日、世話人の大村さんたちと、たまたま一緒に飲む機会がありました。
あれやこれや楽しく話しながら飲んでいたら、気がついてみると「来月の勉強会は、あなたが話をするように」ということになっていました。
私に与えられたテーマは、「沖縄とベトナム~国際交流の現場から」。
私は仕事の合間に事務局の作業を細々と続けているだけなので、「国際交流の現場から」というのは大変おこがましいのですが、私が関わっている「ベトナム青葉奨学会沖縄委員会」ができるまでのいきさつや、支援先を訪ねて思ったことなど、ざっくばらんにお話しさせていただきました。
拙い話に熱心に耳を傾けて下さった先輩方に、感謝いたします。
「ベトナム青葉奨学会沖縄委員会」は、グエン・ドゥック・ホーエさんというベトナム人の呼びかけに、高里勝介さん(故人)・鈴代さん夫妻が応じて始まったものです。
ホーエさんは、1959年に南ベトナムから来日、60年代に東大や京大で学びました。
故国ベトナムで戦火が広がっていく中、ホーエさんは留学生のリーダー的存在として、東京で「東遊学舎」という寮を作り、困難な境遇にある仲間たちを支え励まし続けました。
1965年に米軍が北爆を開始したとき、真っ先に霞が関で反戦デモを行ったのも、ホーエさんたちベトナム人留学生だったそうです。
また、1970年代初めには、戦時下の故国の子どもたちを少しでも励まそうと、日本人にも呼びかけて「兄弟奨学会」という団体を作り、奨学金を送る活動を始めました。
その会の事務局は、当時東京の早稲田奉仕園で仕事をしていた高里さん夫妻の自宅に置かれていたということです。
ホーエさんは、1974年にサイゴンに帰っていきました。
その頃には北ベトナム側の優勢は明らかで、共産主義に批判的なホーエさんが帰国することには、周囲から強い反対の声もあったそうです。
しかし、ホーエさんにすれば、故国がいちばん厳しい時期に同胞と離れていることは、耐え難かったのでしょう。
翌年にはベトナム戦争が終結、革命の混乱の中でホーエさんの消息は途絶え、「兄弟奨学会」の活動も中止せざるを得ませんでした。
それから20年近くが過ぎた1993年、ある日のNHKニュースにホーエさんが登場しました。
ドイモイ政策で変化の兆しを見せるベトナム・ホーチミン市で、「新しい国づくりは人づくりから始まる」と教育に情熱を燃やしている姿が紹介されたのです。
それを偶然見ていた高里夫妻はさっそくホーエさんに連絡を取り、ベトナムを訪ねました。
ホーエさんはドンズー日本語学校を設立し、また貧困家庭の子どもたちが安心して学校に通えるように、新たに奨学金支援の活動を始めていました。
ホーエさんの要望を受けて、高里夫妻が友人たちに呼びかけて1994年に始めたのが「ベトナム青葉奨学会沖縄委員会」です。
物価の安いベトナムでは、年間数千円から1万円ほどあれば、学費や教材費などを賄うことができます。
私たちはホーチミン市にある事務局を通して、ベトナム各地の小・中・高校生にささやかな支援を続けてきました。
私は15年ほど事務局を担当しています。主な仕事は、手紙や書類の翻訳です。
地味な作業ですが、毎年手紙を読んでいると、生徒一人一人の個性が見えてきたり、成長ぶりを実感させられたりすることもあり、楽しい仕事です。
また、何度かベトナムツアーを企画し、生徒たちを訪ねて交流の機会を持ちました。
私たちが支援する生徒たちのうち約半数は、ホーチミン市の南東に位置するカンザーという地域に住んでいます。
初めてカンザーを訪ねたのは1998年。樹高10メートル以上ある広大なマングローブの森に感嘆していると、「ここの森は天然の森ではなく、すべて住民が植林したものです」と聞かされ、さらに驚きました。
ベトナム戦争時、この地域はゲリラの拠点となり、米軍が繰り返し枯れ葉剤を散布、大半の森が枯れてしまったのだそうです。
戦後、行政や住民が地道に植林を続け、元の森の約3分の2を蘇らせたということです。
昨年あたりから、ベトナム戦争期に沖縄の米軍基地に枯れ葉剤が貯蔵され、運び出されていたという証言が数多く出てきています。
カンザーの森を破壊した枯れ葉剤も、もしかすると沖縄から運ばれていたのでしょうか。とても複雑な思いに駆られます。
会の設立から20年近く経ち、多くの元奨学生が、さまざまな分野で活躍を始めています。
長年のホーエさんの苦労や想いが実を結びつつあること、私たちもほんの少しですがそれに加われたことを、嬉しく思っています。
勉強会の話の最後に、フィン・タオ・チャンさんという元奨学生が書いたブログを紹介しました。
行商(露天商)の仕事をして自分たちを育ててくれたお母さんへの思いを書いた素晴らしい文章です。
話しているうちに、私もいろんな思いがこみあげてきました。
下手な翻訳ですが、チャンさんの文章を日本語でインターネットにアップしていますので、可能な方は読んでいただけると幸いです(「母さんの仕事」で検索できます)。http://aobaokinawa.ti-da.net/e3529520.html
Posted by クアン at 22:14│Comments(0)