
2010年12月05日
追悼・当山栄さん
辺野古の座り込みテント村の村長と慕われた当山栄さんが、12月5日未明、肝臓ガンで亡くなったと聞きました。
私も、これまで当山さんと時々お会いする機会があり、いろいろなお話しを聞かせていただきました。
当山さんは、1960年代半ばに大学を卒業して、琉球政府・沖縄県の職員として働くかたわら、基地反対運動に熱心に関わっていました。
ベトナムに対して、とても強い思いを抱いている方でした。
沖縄の米軍基地が、ベトナムの人たちに対してどんなに犯罪的な役割を果たしたのか、当山さんはいつも話されていました。
「沖縄はベトナム戦争に加担したのではない。むしろ、分業して参加したのだ」当山さんは、そこまで言い切っていました。
米軍用地の強制使用をめぐる県収用委員会の公開審理での、当山さんの陳述(1997年)が、こちらにアップされています。http://www.jca.apc.org/HHK/Kokaishinri/8th/Toyama8.html
当山さんは、陳述のほとんどを沖縄の基地とベトナムとの関わりにあてています。
1990年代の後半だったか、何かの折りにベトナムへの奨学金の話をすると、当山さんは嬉しそうに「ぼくもやってみようかな」と言われて、実際にお金を振り込んで下さいました。
当山さんには、ベトナム中部フーイエン省の高校生チン・ホアイ・ダットくんに対して、3年間奨学金の支援をしていただきました。
その後、県庁を退職されるさいに、「これからは収入がなくなるので、申し訳ないが奨学金の支援は今年で終わりにしたい」と申し出をいただきました。
厳しさを増していた辺野古の闘いに、これからのすべてを捧げる決意をされていたのだと思います。
退職後、当山さんは辺野古のテント村に住み込むような形で、闘いに参加されました。
私は辺野古にはごくたまにしか行っていないのですが、海上の単管やぐらでの座り込みなどに参加すると、当山さんが仲間たちにどれだけ信頼され頼りにされているか、痛いほどわかりました。
辺野古への基地建設をどうしても止めようと、文字通り命を削って闘った当山さん。
その当山さんの胸には、米軍に殺されていったベトナムの人々の顔が刻み込まれていたのだと思います。
誰よりも沖縄を愛し、戦争を憎み、ベトナムやアジアの人々に熱い思いを寄せていた当山さん。
その当山さんの思いの、ほんの幾分かでも、引き継いでいきたいと思います。
私も、これまで当山さんと時々お会いする機会があり、いろいろなお話しを聞かせていただきました。
当山さんは、1960年代半ばに大学を卒業して、琉球政府・沖縄県の職員として働くかたわら、基地反対運動に熱心に関わっていました。
ベトナムに対して、とても強い思いを抱いている方でした。
沖縄の米軍基地が、ベトナムの人たちに対してどんなに犯罪的な役割を果たしたのか、当山さんはいつも話されていました。
「沖縄はベトナム戦争に加担したのではない。むしろ、分業して参加したのだ」当山さんは、そこまで言い切っていました。
米軍用地の強制使用をめぐる県収用委員会の公開審理での、当山さんの陳述(1997年)が、こちらにアップされています。http://www.jca.apc.org/HHK/Kokaishinri/8th/Toyama8.html
当山さんは、陳述のほとんどを沖縄の基地とベトナムとの関わりにあてています。
1990年代の後半だったか、何かの折りにベトナムへの奨学金の話をすると、当山さんは嬉しそうに「ぼくもやってみようかな」と言われて、実際にお金を振り込んで下さいました。
当山さんには、ベトナム中部フーイエン省の高校生チン・ホアイ・ダットくんに対して、3年間奨学金の支援をしていただきました。
その後、県庁を退職されるさいに、「これからは収入がなくなるので、申し訳ないが奨学金の支援は今年で終わりにしたい」と申し出をいただきました。
厳しさを増していた辺野古の闘いに、これからのすべてを捧げる決意をされていたのだと思います。
退職後、当山さんは辺野古のテント村に住み込むような形で、闘いに参加されました。
私は辺野古にはごくたまにしか行っていないのですが、海上の単管やぐらでの座り込みなどに参加すると、当山さんが仲間たちにどれだけ信頼され頼りにされているか、痛いほどわかりました。
辺野古への基地建設をどうしても止めようと、文字通り命を削って闘った当山さん。
その当山さんの胸には、米軍に殺されていったベトナムの人々の顔が刻み込まれていたのだと思います。
誰よりも沖縄を愛し、戦争を憎み、ベトナムやアジアの人々に熱い思いを寄せていた当山さん。
その当山さんの思いの、ほんの幾分かでも、引き継いでいきたいと思います。
Posted by クアン at 22:57│Comments(0)