
2011年01月18日
ハイくんとの再会(2)
学校に入って、校長、教頭先生そしてミンホアの10人の子どもたちと交流会を持ちました。
皆さん緊張した面持ちでしたので、私も最初緊張しました。
沖縄委員会で発行している会誌「ホウオウボク」第22号に、村田さんが2年前にこのミンホア村を訪れて子どもたちと交流会をもった時の様子が報告されていて、子どもたちの写真も一緒に載っているものですから、その「ホウオウボク」を、早速皆さんに見てもらいました。
自分たちが写っているので、なんだかびっくりしたような不思議そうなうれしいような感じで見ていました。

沖縄について、生徒たちにひとつふたつ何か実感してもらいたくて、サトウキビから取れた黒糖を少しばかりお土産に持っていきました。
ベトナムでも同じようなお菓子があるということで、なんだか一歩近づけたかなと思いながら、自己紹介が始まりました。
「近頃とても嬉しかったこと、感動したことも一緒に教えて下さい」とお願いしました。
そうしましたら、皆さん同じように「学校の成績が上がったこと」を挙げてくれました。
中には、今学期学業の成績が振るわなかったという子もいました。
そんな時は、校長先生が横から「この子の場合は、困難な家庭事情のため勉強ができなかった」と申し訳なさそうにいわれました。
私としては、学校の行事や村のお祭り、お母さんお父さんにほめられたことなどを想定しての楽しかったことを知りたかったのですが、あまりに学業成績中心の話題に集中してしまって、ちょっと困惑しました。
今度は、「放課後にはどんな風にして過ごしているか」を訊ねてみましたら、やはり皆同じように、「お父さんお母さんを助けて、ご飯を炊いたりおうちの手伝いをしてすごしている」との事でした。
校長先生は「この子たちは遠いところから通っていて、家の手伝いで精一杯なので楽しいことなどはありませんよ」と言われました。
日々の小さなことでも楽しいことはあるはずですが、なんだか味気ない感じになってしまいました。
そして「学業成績に、これほどまでにこだわらなくてもいいのではないか」と思いました。
でも今沖縄に戻ってきてよくよく考えてみましたら、また私自身の小さい頃を思い出して照らし合わせてみますと、少し納得できるような気がします。
私は1950年生まれで、戦後のモノのない時代に生まれました。
親たちは家族を食べさせるのに精一杯で、私たち子どもなどは、半ばほったらかしの状態でした。
そんな私たちにとっての一番の楽しみは、なんといっても学校生活でした(それに続く放課後ももちろんですが)。
学校というところは、毎日新しいことが学べて、おまけに、歌も歌って体育の時間もあって図画工作もあって裁縫もあって、本当に毎日毎日が楽しいところでした。
戦時中で学校に通えなかった親たちも、子どもの学校の様子が面白いようで、頼みもしないのに興味津々宿題を手伝ってくれたりしました。
また、先生たちの口からは、古い封建主義に対峙した「民主主義」という言葉がボンボン飛び出して来たりして、子ども心にも時代が新しくなっていくのを感じたものでした。
ひるがえって、ミンホアの子どもたちのことを思うと、私の子ども時代のように、やはり彼らにとっても学校が一番の楽しみなのかもしれません。
ましてや、「ベトナム社会主義共和国」ですので、学業の成績が誇りになるでしょうし、また目標となって、それが毎日の励みにもなっているのかもしれません。
今の日本のようなどこかいびつな学力偏重型とは違って、国が発展していく過程での人々の向学心みたいなものが、今のベトナムの人々の底流にあるのかもしれない、と思うようになりました。
ですからこれからは、「学業の成績が上がった」ととても喜んで手紙を書いて来てくれる子どもには、率直に一緒に喜んであげるべきだと思いました。
交流会のことに話を戻しますと、その後子どもたちがみんなで歌を歌ってくれて、お返しに、同行してくれた仲宗根さんが沖縄のわらべ歌を紹介しました。
私は準備していたミニアルバムを見せながら沖縄の紹介をしました。
やんばるのみかんや桜祭りのこと、シーサーのこと、きれいな沖縄の海の風景や鯨の泳いでいる様子、我が家の正月風景、富士山を背景にした家族全員の集合の写真などを紹介しました。
とても興味深そうに熱心に見てくれました。

最後に「みなさんも、手紙でベトナムのことをたくさん教えて下さいね」と頼みました。
短い交流の時間でしたが、ミンホアの子どもたちみんなに会えて、とても良かったなと思いました。
反省としては、子どもたちから自発的に話してもらえるところまでは至らなくて、こちら側からの一方通行が大部分を占めていたかな、ということです。
「写真を見ながらそのつど質問などしてもらって、会話のきっかけをつくれればよかったな」と、あとで後悔しました。
その後校長先生と少しお話する時間がありました。
世界的な不況の中で、ゴム産業中心のこの地域の状況を、ちょっと聞いてみました。
校長先生がおっしゃるには、青葉奨学生たちの親はゴム農園の仕事もできない人たちで、臨時に家を建てる手伝いをしたり、学校の掃除の仕事をしたりなどして、安定した収入はない状態だということでした。
ですから、ハイ君やもう1人の高校生のスアン君のように、高校にまで行けるということ自体が、ものすごく大変なことだそうです。
スアン君は現在高校3年生ですが、非常に成績が優秀で、地域合同の統一テストで総合2位の成績を2回とったそうです。
大学にも十分行ける成績ではないかと思います。
交流会の時には「専門学校に行って警察官になりたい」と発表していましたが、里親に送ってくる手紙には「医師になるのが夢だ」と書いていたそうです。
皆さん緊張した面持ちでしたので、私も最初緊張しました。
沖縄委員会で発行している会誌「ホウオウボク」第22号に、村田さんが2年前にこのミンホア村を訪れて子どもたちと交流会をもった時の様子が報告されていて、子どもたちの写真も一緒に載っているものですから、その「ホウオウボク」を、早速皆さんに見てもらいました。
自分たちが写っているので、なんだかびっくりしたような不思議そうなうれしいような感じで見ていました。
沖縄について、生徒たちにひとつふたつ何か実感してもらいたくて、サトウキビから取れた黒糖を少しばかりお土産に持っていきました。
ベトナムでも同じようなお菓子があるということで、なんだか一歩近づけたかなと思いながら、自己紹介が始まりました。
「近頃とても嬉しかったこと、感動したことも一緒に教えて下さい」とお願いしました。
そうしましたら、皆さん同じように「学校の成績が上がったこと」を挙げてくれました。
中には、今学期学業の成績が振るわなかったという子もいました。
そんな時は、校長先生が横から「この子の場合は、困難な家庭事情のため勉強ができなかった」と申し訳なさそうにいわれました。
私としては、学校の行事や村のお祭り、お母さんお父さんにほめられたことなどを想定しての楽しかったことを知りたかったのですが、あまりに学業成績中心の話題に集中してしまって、ちょっと困惑しました。
今度は、「放課後にはどんな風にして過ごしているか」を訊ねてみましたら、やはり皆同じように、「お父さんお母さんを助けて、ご飯を炊いたりおうちの手伝いをしてすごしている」との事でした。
校長先生は「この子たちは遠いところから通っていて、家の手伝いで精一杯なので楽しいことなどはありませんよ」と言われました。
日々の小さなことでも楽しいことはあるはずですが、なんだか味気ない感じになってしまいました。
そして「学業成績に、これほどまでにこだわらなくてもいいのではないか」と思いました。
でも今沖縄に戻ってきてよくよく考えてみましたら、また私自身の小さい頃を思い出して照らし合わせてみますと、少し納得できるような気がします。
私は1950年生まれで、戦後のモノのない時代に生まれました。
親たちは家族を食べさせるのに精一杯で、私たち子どもなどは、半ばほったらかしの状態でした。
そんな私たちにとっての一番の楽しみは、なんといっても学校生活でした(それに続く放課後ももちろんですが)。
学校というところは、毎日新しいことが学べて、おまけに、歌も歌って体育の時間もあって図画工作もあって裁縫もあって、本当に毎日毎日が楽しいところでした。
戦時中で学校に通えなかった親たちも、子どもの学校の様子が面白いようで、頼みもしないのに興味津々宿題を手伝ってくれたりしました。
また、先生たちの口からは、古い封建主義に対峙した「民主主義」という言葉がボンボン飛び出して来たりして、子ども心にも時代が新しくなっていくのを感じたものでした。
ひるがえって、ミンホアの子どもたちのことを思うと、私の子ども時代のように、やはり彼らにとっても学校が一番の楽しみなのかもしれません。
ましてや、「ベトナム社会主義共和国」ですので、学業の成績が誇りになるでしょうし、また目標となって、それが毎日の励みにもなっているのかもしれません。
今の日本のようなどこかいびつな学力偏重型とは違って、国が発展していく過程での人々の向学心みたいなものが、今のベトナムの人々の底流にあるのかもしれない、と思うようになりました。
ですからこれからは、「学業の成績が上がった」ととても喜んで手紙を書いて来てくれる子どもには、率直に一緒に喜んであげるべきだと思いました。
交流会のことに話を戻しますと、その後子どもたちがみんなで歌を歌ってくれて、お返しに、同行してくれた仲宗根さんが沖縄のわらべ歌を紹介しました。
私は準備していたミニアルバムを見せながら沖縄の紹介をしました。
やんばるのみかんや桜祭りのこと、シーサーのこと、きれいな沖縄の海の風景や鯨の泳いでいる様子、我が家の正月風景、富士山を背景にした家族全員の集合の写真などを紹介しました。
とても興味深そうに熱心に見てくれました。
最後に「みなさんも、手紙でベトナムのことをたくさん教えて下さいね」と頼みました。
短い交流の時間でしたが、ミンホアの子どもたちみんなに会えて、とても良かったなと思いました。
反省としては、子どもたちから自発的に話してもらえるところまでは至らなくて、こちら側からの一方通行が大部分を占めていたかな、ということです。
「写真を見ながらそのつど質問などしてもらって、会話のきっかけをつくれればよかったな」と、あとで後悔しました。
その後校長先生と少しお話する時間がありました。
世界的な不況の中で、ゴム産業中心のこの地域の状況を、ちょっと聞いてみました。
校長先生がおっしゃるには、青葉奨学生たちの親はゴム農園の仕事もできない人たちで、臨時に家を建てる手伝いをしたり、学校の掃除の仕事をしたりなどして、安定した収入はない状態だということでした。
ですから、ハイ君やもう1人の高校生のスアン君のように、高校にまで行けるということ自体が、ものすごく大変なことだそうです。
スアン君は現在高校3年生ですが、非常に成績が優秀で、地域合同の統一テストで総合2位の成績を2回とったそうです。
大学にも十分行ける成績ではないかと思います。
交流会の時には「専門学校に行って警察官になりたい」と発表していましたが、里親に送ってくる手紙には「医師になるのが夢だ」と書いていたそうです。
Posted by クアン at 20:58│Comments(0)