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2011年09月21日

気仙沼に行ってきました

3月11日の震災のあと、私たちのグループでは、国際ボランティアセンター山形(IVY)という団体にわずかばかりの支援金を送りました。
ベトナムへの送金が円高で節約できたので、浮いた分を被災地支援に回そうと話し合ったのです。

IVYは、震災後すぐに、隣りの宮城県で被災者支援の活動を始めていました。
初めは支援物資の配達や炊き出しが主な活動でしたが、震災からしばらく経ったころ、「キャッシュ・フォー・ワーク」という取組みを始めたことが、ブログに書かれていました。

被災地では、津波で多くの方が職場を失いました。
一方、お年寄りだけの世帯など、家に入り込んだ瓦礫やヘドロの除去をしたくてもできない方が多くいらっしゃいます。
そこで、失業した被災者の方をIVYが雇用して、依頼のあった家の瓦礫やヘドロの片づけをしてもらい、支援者からの寄付金で給料を支払う、という仕組みを作ったのです。

初めは石巻で、続いて気仙沼でもこの取り組みがスタートしました。
この方法は2003年のスマトラ大津波や、昨年のハイチ大地震のさいにも、日本のNGOが被災地で実施して、大きな成果を上げたそうです。

先月、IVYから「キャッシュ・フォー・ワーク支援ツアー」のチラシが送られてきました。
今回は気仙沼を訪れて、被災地の状況を見たり、実際に泥上げ作業を体験したりする、というプランです。
沖縄から行くのはちょっと遠いのですが、実際に自分の目で見てみたいと考え、思い切って参加することにしました。

9月17日朝、東京から新幹線で一ノ関へ。ここで山形からのバスに合流しました。
参加者は30名余り。関東や関西、岡山など、各地から集まった方々で、年齢もさまざまです。

正午前に気仙沼に着きました。気仙沼市は人口7万人余りの地方都市ですが、日本有数の漁港がある、水産のまちです。
3月11日には20メートルもの津波が押し寄せ、気仙沼市だけで死者1017名、行方不明387名(9月中旬の時点)という大変な被害を受けました。
大津波に見舞われたあとに、火事が発生。火災は広範囲に拡大し、辛うじて残った建物も、多くが燃えてしまったそうです。

私たちは、IVY気仙沼のリーダーTさんの案内で、まずバスの中から被災地を見学しました。
震災からは、もう半年余りが経っています。被害が甚大だったといっても、ある程度は片付いているのでは、と思っていたのですが、現実は違っていました。
車窓の外には、目を疑うような光景が広がっていました。

Tさんは、複雑な気持ちを語ってくれました。
「外から来た人たちが、被災した場所を見て回ったり、写真を撮ったりするのは、地元の人にとっては本当は気持ちのいいことではありません。でも、現状を多くの人に知ってほしいし、伝えてほしい。遠慮せずに写真を撮って下さい」
私も、罪深いような気持ちをどこかで感じながら、写真を撮りました。

気仙沼に行ってきました

気仙沼に行ってきました

気仙沼に行ってきました

気仙沼に行ってきました

このときは干潮だったのですが、満潮時にはこの一帯は海水に浸かってしまうそうです。

今回の震災で瓦礫の撤去や復興がなかなか進まないのは、被災した範囲があまりにも広いということもありますが、復興に向けた方針がなかなか決まらない、ということもあるようです。
元の場所に街を再建するのか、それとも津波の危険の少ない高台のほうにできるだけ移していくのか、など、難しい問題があって、方向性が定まらないのだそうです。

その後、交流会と昼食会になりました。
現地のスタッフや、雇用されて働いている方々が紹介されました。多くは20代から30代前半ぐらいの若い人たちです。
石巻のスタッフの方々も、交流会に駆けつけてくれました。

気仙沼に行ってきました

気仙沼に行ってきました

スタッフの方々が、炊き出しに熟練しているということで、昼食会はこの日も炊き出しの形式になりました。
外から支援(?)に来た私たちが、よりによって地元スタッフの炊き出しのお世話になるとは…。

例年と比べると数分の一だそうですが、気仙沼ではカツオやサンマの水揚げが始まっています。
昼食のメニューは、カツオのたたき、サンマの塩焼き、サンマのつみれ汁、そして気仙沼の米で作ったおにぎり、という豪華なものでした。

気仙沼に行ってきました

食事をいただきながら、被災者の女性の方のお話しを聞きました。
この方の家は、津波をかぶりましたが辛うじて流されることはなく、そのあとの火災も何軒か手前で止まったそうです。
ただ、家は瓦礫とヘドロに覆われてしまい、とても自力で片づけができる状態ではありませんでした。
途方に暮れていたところでIVY気仙沼の活動を知り、片づけを依頼したそうです。
「このチームの若者たちの働きぶりは素晴らしかった、本当に感謝している」と嬉しそうに話されていました。
いまは仮設住宅に住んでいますが、いずれは元の家に戻りたいということでした。

スタッフの方に昼食のお礼を言うと、笑顔で「食べた分は働いてもらいますよ」。
どれだけ役に立つかは別として、こちらもそのつもりです。

作業着に着替えて、いよいよ作業体験です。
1階が食堂、2階と3階が住居だった建物での、瓦礫やヘドロの片付け作業。
スコップでヘドロをかき出したり、土嚢袋に詰めたヘドロを運び出したりして、すぐに汗だくになります。
ヘドロといっても、泥だけでなく、ガラスやら金属片やら瓦やら、いろんなものが一緒になって埋まっています。

慣れない私たちが安全に作業できるように、あらかじめスタッフの方々がある程度片付けてくれていたようです。
それでも、土砂に埋まっていた何枚かの瓦を手で取り除くと、その下のヘドロは相当な悪臭がしました。
かなり危険でしんどい作業ではあります。

気仙沼に行ってきました

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2階も泥に覆われていました。壊れたオルガンを2階から運び出しながら、震災前の穏やかな暮らしを思いました。

気仙沼に行ってきました

2時46分の激震のあとも動き続けた時計。津波に襲われた時刻で止まっています。

気仙沼に行ってきました

建物の中から運び出した土砂や瓦礫が、外に積まれています。
白いシャツの男性は、地元紙「三陸新報」の記者さん。震災の日にも自家発電で印刷して、なんとか新聞発行を続けたそうです。

時間に限りがあって、実質的に作業をしたのは1時間ほど。
少しは役に立ったのか、それとも邪魔をしただけのことだったか、微妙なところかもしれません。
それでも、たくさんの人たちが遠方から関心を持って集まった、ということで、現地のスタッフの方々も喜んで下さったようです。

気仙沼に行ってきました

キャッシュ・フォー・ワークで働いている若者たちがみんな笑顔だったことを、心強く思いました。
もちろん、みんなそれぞれ家族や友人を失い、家を失い、職場を失った人たち。私たちには想像もできないような痛みを抱えているはずです。
それでも、汗を流して働き、生まれ育った街の復興に貢献している、ということが、大きな心の支えになっているのだと思います。

キャッシュ・フォー・ワークの取り組みは、来年3月まで続ける予定だそうです。
最終目標は、働いている人たち全員が、再就職できることです。難しい課題ですが、みんな前向きに頑張っている様子に、こちらのほうが力づけられました。
できる範囲で、これからもこの取り組みを支えていきたいと思います。



Posted by クアン at 00:56│Comments(0)
 
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