2010年10月15日
阿波根昌鴻さんとホー・チ・ミンさん
9年前の「ベトナムこども絵画展」のとき、ホーチミン市戦争証跡博物館のフィン・ゴック・ヴァンさんと一緒に伊江島に阿波根昌鴻さんを訪ねたことがあります。
阿波根さんが建てた資料館「ヌチドゥタカラの家」を、ヴァンさんに見てもらいたかったのです。
その時、阿波根さんは100歳になられる直前で、離れの家で寝たきりの状態でした。
阿波根さんのあとを次いで「わびあいの里」を運営されている謝花悦子さんが、「おじいさん、ベトナムからお客さんが来て下さいましたよ」と話しかけて下さったのですが、阿波根さんの返事はありませんでした。
謝花さんは、ヴァンさんと私たちに、こんな話を教えて下さいました。
1960年代後半、ベトナム戦争が最も激しかった頃、阿波根さんたちは、北ベトナムへ行ってホー・チ・ミン主席に会う計画を立て、準備を進めていた、というのです。
結局、この計画は1969年9月にホー・チ・ミンさんが亡くなったために実現しなかったのですが…。
資料館には、阿波根さんの書き込みのある、「ホーチミン大統領死去」を伝える新聞も残されていました。
阿波根さんたちの北ベトナム訪問。そんな計画があったとは、初めて知りました。
当時、伊江島では、米軍に連れられてきた南ベトナムの少年兵がパラシュート降下訓練をするなど、ベトナムの戦場と直結した米軍の基地・訓練場となっていたそうです。
その伊江島から北ベトナムに行き、ホー・チ・ミン主席と会うことで、阿波根さんたちはベトナム侵略戦争反対、米軍基地反対を国際的にアピールし、戦争をやめさせる道を探ろうとしていたのでしょう。
でも、その計画には、どこか不思議な点があるような気がします。
いまでは、沖縄からハノイには簡単に行くことができますが、1960年代に米軍統治下の沖縄から敵国・北ベトナムに行くのは、想像も出来ないほど困難だったと思います。
北爆が行われていた期間であれば、リスクも相当なものがあります。
阿波根さんのことですから、おそらくさまざまな障害を乗り越えて、(もしホー・チ・ミンさんが亡くなっていなければ)計画を実現させていただろうと思います。
でも、その膨大な労力やリスクに比べると、阿波根さんたちがハノイに行ってホー・チ・ミンさんに会うことのメリットや効果がどの程度のものなのか、いまひとつピンと来ないところがあります。
また、ホー・チ・ミンさんが亡くなったために計画が立ち消えになった、というのも、考えてみるとちょっと変です。
米軍基地反対やベトナム侵略戦争反対を世界にアピールするためなら、相手がホー・チ・ミンさんでなくても、後継者のレ・ズアン氏やファム・ヴァン・ドン首相であっても、その意義に変わりはないはずです。
どうして阿波根さんはハノイに行くことにこだわっていたのか、そして、なぜホー・チ・ミンさんでなければならなかったのか、小さな疑問が、胸に引っかかっていました。
その後、ホー・チ・ミンさんに関する本や資料をいくつか読んでみて、「ホー・チ・ミンさんって、なんだか阿波根さんに似ているなあ…」と感じることが何度かありました。
「ホー・チ・ミンさんと阿波根さんが似ている」と言っても、奇妙に思われるかも知れません。
阿波根さんは「沖縄のガンジー」とも言われるように、徹底した非暴力を貫いた人。かたやホー・チ・ミンさんは、フランス・日本・アメリカに対する抵抗戦争を指導したリーダー。2人の行動は、似ているどころか対極にあるともいえます。
でも、たとえば、こんな言葉があります。
「孔子やイエス・キリスト、カール・マルクス、孫文。これらの方々は、みな、人類の幸福をはかり、社会全体の幸福を考えてきた。
もしこれらの方々がいまも生きていて、一ヶ所に集まったとしたら、きっと親友のように仲良く暮らしたに違いないと私は信じている。
私も、これらの方々の小さな弟子になるように努力したい」
これ、なんだか阿波根さんが言いそうな言葉のように、私は感じます。
でも、ホー・チ・ミンさんの言葉なのです。
ホー・チ・ミンさんは多くの戦争を指導したわけですが、決して好戦的な人ではなかったようです。たとえばフランスの再侵略に対しても、戦争を避けるために交渉を続け、ぎりぎりまで妥協を重ねて、これ以上はどうしても譲れないというところで、最後の手段として武力の抵抗に踏み切ったそうです。
そして、苦しい戦争を強いられる中で、「孔子やイエス・キリストの小さな弟子になりたい」なんていう思いも持ち続けていたわけです。
仙人を思わせる穏やかな風貌や、歴史や世界に対するユニークな洞察、故郷や母国に対する深い愛情、国際的な広い視野を持つこと、つねに易しい言葉で語りかけたこと、優れた運動家であったことなど、阿波根さんとホー・チ・ミンさんには、多くの共通点を感じます。
そしてその2人が、状況や方法には違いがありましたが、それぞれの場所で米軍と対峙していました。
伊江島土地闘争では、きびしい状況の下でも「決して反米的にならないこと」を掲げていました。
ベトナムの場合は戦争ですので、「反米的にならない」わけにはいきませんが、それでもアメリカの政府と民衆を区別して、アメリカの民衆に率直に訴えかけるという姿勢は徹底していたそうです。
阿波根さんは、ベトナムやホー・チ・ミンさんに関する本や資料をたくさん集めて、読んでいたそうです。
その中で、私の想像ですが、ホー・チ・ミンさんの姿に自分自身と相通じるものを感じ取ったのではないでしょうか。そして、このベトナムのリーダーに強烈な興味を持ち、どうしても会ってみたくなって、実際に準備を始めたのではないでしょうか。
もちろん、「何としても戦争を止めさせたい」という思いは、とても強烈なものだったはずですが、ハノイ行きを思い立たせたきっかけは、それだけではなかったような気がします。
そして、ホー・チ・ミンさん以外の北ベトナムのリーダーたちに対しては、そこまでの関心や共感を持つことはなかったのでしょう。
まあ私のような俗物が、阿波根さんの胸中を推し量ること自体、はじめからかなり無理な話ではあるのですが…。
もしも阿波根さんとホー・チ・ミンさんが本当に会っていたとしたら…?
これも私の空想(妄想かも?)になりますが、2人はとても意気投合しただろうと思います。
当然、米軍との闘いについて話したでしょうが、それにとどまらず、話は奔放に広がって尽きなかったのではないでしょうか。
ホー・チ・ミンさんにとっても、阿波根さんとの出会いは、興味の尽きないものになっただろうと思います。「朋有り遠方より来たる、亦楽しからずや」。
記録を大切にした阿波根さんのことですから、ホー・チ・ミンさんとの対話についても、きっと詳しい記録を残されたに違いありません。
2人の対話の記録は、ベトナムにとっても、沖縄にとっても、かけがえのない宝になったのでは、と思うのです。
同時代を生きた2人が、ついに出会う機会を持たなかったことが、とても残念な気がします。
資料館に展示されていた「ホーチミン大統領死去」を告げる新聞記事。それを見たときは、「大切に保存してあるんだな…」と思っただけでした。
でも今になって考えてみると、ホーチミン死去のニュースに接した阿波根さんは、大きな喪失感に見舞われたのではないか、そんな気がしてなりません。
阿波根さんが建てた資料館「ヌチドゥタカラの家」を、ヴァンさんに見てもらいたかったのです。
その時、阿波根さんは100歳になられる直前で、離れの家で寝たきりの状態でした。
阿波根さんのあとを次いで「わびあいの里」を運営されている謝花悦子さんが、「おじいさん、ベトナムからお客さんが来て下さいましたよ」と話しかけて下さったのですが、阿波根さんの返事はありませんでした。
謝花さんは、ヴァンさんと私たちに、こんな話を教えて下さいました。
1960年代後半、ベトナム戦争が最も激しかった頃、阿波根さんたちは、北ベトナムへ行ってホー・チ・ミン主席に会う計画を立て、準備を進めていた、というのです。
結局、この計画は1969年9月にホー・チ・ミンさんが亡くなったために実現しなかったのですが…。
資料館には、阿波根さんの書き込みのある、「ホーチミン大統領死去」を伝える新聞も残されていました。
阿波根さんたちの北ベトナム訪問。そんな計画があったとは、初めて知りました。
当時、伊江島では、米軍に連れられてきた南ベトナムの少年兵がパラシュート降下訓練をするなど、ベトナムの戦場と直結した米軍の基地・訓練場となっていたそうです。
その伊江島から北ベトナムに行き、ホー・チ・ミン主席と会うことで、阿波根さんたちはベトナム侵略戦争反対、米軍基地反対を国際的にアピールし、戦争をやめさせる道を探ろうとしていたのでしょう。
でも、その計画には、どこか不思議な点があるような気がします。
いまでは、沖縄からハノイには簡単に行くことができますが、1960年代に米軍統治下の沖縄から敵国・北ベトナムに行くのは、想像も出来ないほど困難だったと思います。
北爆が行われていた期間であれば、リスクも相当なものがあります。
阿波根さんのことですから、おそらくさまざまな障害を乗り越えて、(もしホー・チ・ミンさんが亡くなっていなければ)計画を実現させていただろうと思います。
でも、その膨大な労力やリスクに比べると、阿波根さんたちがハノイに行ってホー・チ・ミンさんに会うことのメリットや効果がどの程度のものなのか、いまひとつピンと来ないところがあります。
また、ホー・チ・ミンさんが亡くなったために計画が立ち消えになった、というのも、考えてみるとちょっと変です。
米軍基地反対やベトナム侵略戦争反対を世界にアピールするためなら、相手がホー・チ・ミンさんでなくても、後継者のレ・ズアン氏やファム・ヴァン・ドン首相であっても、その意義に変わりはないはずです。
どうして阿波根さんはハノイに行くことにこだわっていたのか、そして、なぜホー・チ・ミンさんでなければならなかったのか、小さな疑問が、胸に引っかかっていました。
その後、ホー・チ・ミンさんに関する本や資料をいくつか読んでみて、「ホー・チ・ミンさんって、なんだか阿波根さんに似ているなあ…」と感じることが何度かありました。
「ホー・チ・ミンさんと阿波根さんが似ている」と言っても、奇妙に思われるかも知れません。
阿波根さんは「沖縄のガンジー」とも言われるように、徹底した非暴力を貫いた人。かたやホー・チ・ミンさんは、フランス・日本・アメリカに対する抵抗戦争を指導したリーダー。2人の行動は、似ているどころか対極にあるともいえます。
でも、たとえば、こんな言葉があります。
「孔子やイエス・キリスト、カール・マルクス、孫文。これらの方々は、みな、人類の幸福をはかり、社会全体の幸福を考えてきた。
もしこれらの方々がいまも生きていて、一ヶ所に集まったとしたら、きっと親友のように仲良く暮らしたに違いないと私は信じている。
私も、これらの方々の小さな弟子になるように努力したい」
これ、なんだか阿波根さんが言いそうな言葉のように、私は感じます。
でも、ホー・チ・ミンさんの言葉なのです。
ホー・チ・ミンさんは多くの戦争を指導したわけですが、決して好戦的な人ではなかったようです。たとえばフランスの再侵略に対しても、戦争を避けるために交渉を続け、ぎりぎりまで妥協を重ねて、これ以上はどうしても譲れないというところで、最後の手段として武力の抵抗に踏み切ったそうです。
そして、苦しい戦争を強いられる中で、「孔子やイエス・キリストの小さな弟子になりたい」なんていう思いも持ち続けていたわけです。
仙人を思わせる穏やかな風貌や、歴史や世界に対するユニークな洞察、故郷や母国に対する深い愛情、国際的な広い視野を持つこと、つねに易しい言葉で語りかけたこと、優れた運動家であったことなど、阿波根さんとホー・チ・ミンさんには、多くの共通点を感じます。
そしてその2人が、状況や方法には違いがありましたが、それぞれの場所で米軍と対峙していました。
伊江島土地闘争では、きびしい状況の下でも「決して反米的にならないこと」を掲げていました。
ベトナムの場合は戦争ですので、「反米的にならない」わけにはいきませんが、それでもアメリカの政府と民衆を区別して、アメリカの民衆に率直に訴えかけるという姿勢は徹底していたそうです。
阿波根さんは、ベトナムやホー・チ・ミンさんに関する本や資料をたくさん集めて、読んでいたそうです。
その中で、私の想像ですが、ホー・チ・ミンさんの姿に自分自身と相通じるものを感じ取ったのではないでしょうか。そして、このベトナムのリーダーに強烈な興味を持ち、どうしても会ってみたくなって、実際に準備を始めたのではないでしょうか。
もちろん、「何としても戦争を止めさせたい」という思いは、とても強烈なものだったはずですが、ハノイ行きを思い立たせたきっかけは、それだけではなかったような気がします。
そして、ホー・チ・ミンさん以外の北ベトナムのリーダーたちに対しては、そこまでの関心や共感を持つことはなかったのでしょう。
まあ私のような俗物が、阿波根さんの胸中を推し量ること自体、はじめからかなり無理な話ではあるのですが…。
もしも阿波根さんとホー・チ・ミンさんが本当に会っていたとしたら…?
これも私の空想(妄想かも?)になりますが、2人はとても意気投合しただろうと思います。
当然、米軍との闘いについて話したでしょうが、それにとどまらず、話は奔放に広がって尽きなかったのではないでしょうか。
ホー・チ・ミンさんにとっても、阿波根さんとの出会いは、興味の尽きないものになっただろうと思います。「朋有り遠方より来たる、亦楽しからずや」。
記録を大切にした阿波根さんのことですから、ホー・チ・ミンさんとの対話についても、きっと詳しい記録を残されたに違いありません。
2人の対話の記録は、ベトナムにとっても、沖縄にとっても、かけがえのない宝になったのでは、と思うのです。
同時代を生きた2人が、ついに出会う機会を持たなかったことが、とても残念な気がします。
資料館に展示されていた「ホーチミン大統領死去」を告げる新聞記事。それを見たときは、「大切に保存してあるんだな…」と思っただけでした。
でも今になって考えてみると、ホーチミン死去のニュースに接した阿波根さんは、大きな喪失感に見舞われたのではないか、そんな気がしてなりません。
Posted by クアン at 22:07│Comments(0)
│沖縄基地とベトナム