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2011年02月27日

消えようとしているある漁村

30名余りの青葉奨学生が暮らしている、タンアンという漁村があります。
ホーチミン市の南東にあたるカンザーの中でも、最も交通不便な場所で、カンタン町から渡し舟を使っていかなければなりません。
この村は、2006年12月のドリアン台風で多くの家屋が全壊するという被害を受けました(このとき、ほとんどの青葉奨学生の家も倒れてしまったそうです)。
その後、行政の指導もあって、近い将来に住民全員が内陸部に移住することに決まったそうです。

少し古い記事ですが、2007年10月18日の「トゥオイチェ」新聞に、「タンアン島、最後の渡し舟」というタンアン村の訪問記事が出ていました。
沖縄委員会会報「Cay Phuong」第20号に載せたものですが、このブログでも紹介したいと思います。
なお、いつもながら翻訳に間違いがあるかもしれませんので、ご了承ください。

(その後、移住について村の人に訊ねたことがありますが、数千人規模の移住になるため、まだかなり先の話になるだろうということでした。)


タンアン島、最後の渡し舟

ホーチミン市カンザー郡。カンタン町の港からタンアン島へ渡る定期船には、客はあまり乗っていなかったが、船体はいつもよりも重そうに見えた。
年老いた船頭は、タバコを吸いながらつぶやいた。
「たぶん、この渡し船も、もうすぐなくなっちまうんだろうな…」

多くの人、多くの家族が、数世代にわたってこの島で生を受け、暮らしを営んできた。
上空から見下ろすと、島はまるで海に浮かんだ木の葉のように頼りなく見える。
ここ数年、台風が続けて襲来し、島を吹き飛ばそうとしているかのように荒れ狂った。
近年、台風はますます凶暴になり、人々は内陸への移住を考えている。
しかし、島を離れるにしても残るにしても、ここの住民にとって、決して容易な選択ではないのだ…。

豊かだった時代

タンアンの古くからの住民の1人、ブイ・ヴァン・ハイさん(81歳)は、タンアン島のヴンタウに面した側の海岸で堤防がひどく崩れかかっており、島全体が海に呑み込まれてしまう危機にある、ということを教えてくれた。
住民と行政は、波を防いで島が生き残れるように、力を合わせて石の防波堤を築かなければならなかった、という。

ハイさんはまた、古老が語り継いできた、島の始まりについての歴史を教えてくれた。
それは、戦争や飢饉を避けて、土地の支配者の下から逃れてきた流民の話であった。

はじめ、彼らは漁をしに来ていたのだが、ヴンタウ・ドンナイ・カンザーに囲まれた湾の中に、美しい地形をした小さな島があるのを、偶然に発見した。
彼らは内陸の土地を捨てて、誘い合ってこの島に住み着くようになった。
島の土地は低く、つねに海水に浸されるため、高床の家を建てなければならなかった。
1960年代からは、島に次々と家が建つようになった。集まって暮らす人々は、数千人にもなり、海の仕事で生計を立てた。

その頃、タンアンはとても暮らしやすいところだった。
この海域は魚やエビが豊かだった。貧しくて船を持てなくても、海岸で漁網を投げるだけで、十分に食べることができた。
引退して20年近くになる77歳の元漁民、クアン・ヴァン・マイさんは、豊かなこの海を駆け回った時代を回想し、熱っぽく語った。
「1日漁に出れば、半月は食っていけたもんだよ」
その黄金時代、マイさんは島でもっとも裕福な民であった。
彼は4隻の漁船を持ち、漁に出るときには60人のタンアンの青年を引き連れていた。
船は魚やエビで重くなり、彼らはその足でヴンタウの街に行って売りさばいた。

過去を語るときに、古くからの住民は、その頃は海の恵みで豊かに暮らせただけではなく、現在のような不測の天災の心配もなかったと口を揃える。
人々は木と葉っぱで簡素な家を建てれば、安心して暮らすことができた。
彼らにとって、台風など、どこか遠いところの話でしかなかったのだ。 

現在の不安

「ドリアン台風(2006年12月)がやってきたとき、はじめ、人々はとても楽観的に考えていました。台風がこの小さな島を破壊してしまうかもしれない、などとは、人々にはとても信じられなかったのです」。

タンアン農民会主席のレ・ホン・フックさんは、思い出しながら語った。
台風が通り過ぎ、100戸以上の家が倒壊し廃墟になったさまを目にして、海に囲まれたこの小さな島があまりにも脆い存在であるということを、人々は初めて痛感させられたのだった。
フックさんによれば、それでも天の神様はタンアンを見放してはいなかった。
もし台風が連続してやってきて、幅が数百メートルしかない島に高潮と高波が襲いかかり、家屋を押し潰してしまっていたら、島の人々の生命と財産にもっと重大な被害が出ていただろう、と。

私を案内してくれたバイクタクシー運転手(10分足らずで島のすべての道を走り尽くしてしまったのだが)のグエン・タン・ドゥックさんは言う。
「去年のドリアン台風のあと、タンアンの人たちは、この島が海に浮かぶ木の葉のように頼りないものだと感じて、恐れを抱くようになりました」。

多くの専門家も、次の点を指摘している。
この島があまりにも小さく、土地は非常に低く、家は簡素に建てられていること。
また、高波や暴風から身を守ってくれる高台や森がなく、内陸の街からはエンジン船で少なくとも30分以上かかるため、もし大きな台風に直撃されれば、想像もつかないような被害を蒙ることになるだろう。
とくに、最近では大型台風が頻繁にやってくるようになり、自然災害の規模はますます予測しがたくなっている、という。
ホーチミン市人民委員会のレ・ホアン・クアン主席は、カンザーを視察したあと、島の人々を速やかに内陸に移住させることを決定した。

タンアン農民会のフックさんは、昼間に青年たちがたむろして、賭けトランプ遊びなどをしている様子を私に見せ、これもまた島が抱えている問題なのだと指摘した。
「自然災害のほかに、経済の行き詰まりと社会問題もまた、移住しなければならない理由なのです」。
島で生まれ、40歳過ぎになるフックさんは、タンアンの経済状況について熟知している。
フックさんによると、タンアン一帯の漁場の水産資源は、1990年代以後、次第に減少している。
とくに、ティヴァイ川の水が工場排水によってひどく汚染されるようになったあとは、魚やエビが激減してしまった。
「かつて、タンアンの漁民は1日働けば半月は生活できる、と言われたものですが、いまではその日食べる分を獲るのが精一杯です。船の燃料代にも満たない日さえあります」。

私が島を離れる前、ホーチミン市人民議会の代表が、タンアン住民との意見交換会を行った。
移住の件に関して、多くの意見が集中した。
数名の住民は、生まれ育ったこの土地を離れたくない、と主張したが、多数の住民は移住に同意した。
彼らは、内陸に移ることは自分たち自身のためだけでなく、彼らの子や孫にとってもよい結果をもたらすと信じている。
おそらく、内陸では危険な災害から身を守ることもより容易だろうし、将来、子どもたちの学業や就職、医療その他の社会生活の面でもプラスになるだろうと考えている。

三世代の親族が島で暮らしているレ・ヴァン・チュンさん(カンザー郡祖国戦線副主席・元タンアン村主席)は、故郷の人々の気持ちを代弁した。
「親族がいまいちばん不安に思っていることは、海で生きてきた民が、内陸でどのように暮らしていけるのか、ということです。海の中の孤島を出てカンタンの街に定住することは、とてもよいことでしょう。でも、彼らはこれからも漁業や塩作りの仕事をうまくやっていけるでしょうか。もしできないとすれば、代わりにどんな仕事をして生きていけばよいのでしょうか」。

島を出て内陸に戻る船は、ゆっくりと進んでいた。海は穏やかだった。
船にはやはり客が少なかったが、タンアンの人々の苦悶を運んでいるかのように、船の足取りは重く感じられたのだった。
クオック・ヴィエト


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